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北条氏康とは?関東を制した後北条氏3代目をわかりやすく解説

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北条早雲ほうじょうそううんが切り拓き、氏綱うじつなが整えた後北条氏ごほうじょうしの礎。その3代目・北条氏康ほうじょううじやす(1515〜1571年)は、関東を広く支配した後北条氏ごほうじょうし全盛期を作った武将です。上杉謙信うえすぎけんしん武田信玄たけだしんげんという強大なライバルと渡り合い、河越夜戦かわごえやせん河越城の戦いかわごえじょうのたたかい)では数万の包囲軍を撃破。小田原城おだわらじょうを難攻不落の大要塞に整え、「民の父母」とも称された治世は、戦国武将の中でも特異な輝きを放ちます。


3行でわかる北条氏康ほうじょううじやす

  • 1515年生まれ。北条氏綱ほうじょううじつなの嫡男として後北条氏ごほうじょうし3代目を継ぐ。
  • 1546年の河越夜戦かわごえやせん河越城の戦いかわごえじょうのたたかい)で大軍を撃破し、関東の覇権を確立した。
  • 上杉謙信うえすぎけんしん武田信玄たけだしんげんと三つ巴で争いながら、小田原を中心に関東を統治した。

基本プロフィール

項目内容
生没年1515年〜1571年
通称・別名新九郎、相模さがみの獅子
北条氏綱ほうじょううじつな(2代目当主)
祖父北条早雲ほうじょうそううん後北条氏ごほうじょうし初代)
活躍地相模さがみ(神奈川県)・関東一円
家督継承1541年(天文てんぶん10年)

河越夜戦かわごえやせん河越城の戦いかわごえじょうのたたかい)(1546年)——関東制覇への転機

北条氏康ほうじょううじやすの名を高めたのが、1546年(天文てんぶん15年)の河越夜戦かわごえやせん河越城の戦いかわごえじょうのたたかいです。関東管領かんとうかんれい上杉憲政うえすぎのりまさ古河公方こがくぼう足利晴氏あしかがはるうじが連合した約8万(諸説あり)の大軍が、河越城を包囲しました。城に篭る兵はわずか3,000ほど。

氏康うじやすは夜陰に乗じて本陣に突入する奇襲作戦を展開。包囲軍は混乱し、大敗を喫しました。この勝利で氏康うじやすは関東の覇権を握り、上杉憲政うえすぎのりまさ越後えちごへ逃れ、やがて上杉謙信うえすぎけんしんの養子となります。

甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい(1554年)

1554年(天文てんぶん23年)、氏康うじやす武田信玄たけだしんげん今川義元いまがわよしもと甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいを締結します。三者が婚姻関係で結ばれた同盟で、互いの背後を守り合うことで各自が領地拡大に専念できる体制を作りました。

この同盟により氏康うじやすは西の脅威を減らし、関東の上杉謙信うえすぎけんしんとの対立に集中できるようになります。しかし信玄が後に同盟を破棄(駿河侵攻するがしんこう)したため、晩年は武田との関係が緊張しました。

上杉謙信うえすぎけんしんとの戦い

氏康うじやすの生涯における最大のライバルが上杉謙信うえすぎけんしんです。謙信は旧関東管領かんとうかんれい上杉憲政うえすぎのりまさから「関東管領かんとうかんれい」の地位を引き継ぎ、関東諸大名を率いて数度にわたり小田原城おだわらじょうを包囲しました。最大規模は1561年(永禄4年)の第4次関東遠征で、数十万とも伝わる大軍が小田原に迫りました。

しかし氏康うじやすは城外戦を避け、小田原城おだわらじょうに籠城。謙信の兵站が続かず、包囲軍は撤退します。難攻不落の小田原城おだわらじょうと、持久戦で凌ぐ氏康うじやすの戦略が、謙信の大軍を封じ込めました。

治世の特徴——「民の父母」と呼ばれた理由

氏康うじやすは軍事だけでなく、内政でも際立った実績を残しました。撰銭令えりぜにれいの廃止税制の整備を行い、農民への租税負担を軽くする施策を取りました。「今年は豊作が見込めないから年貢を減免する」という内容の文書が現存しており、領民の生活を具体的に考えた統治者であったことがわかります。

また、小田原城おだわらじょうを整備して商工業を発展させ、城下町として関東有数の規模にまで育てました。後に豊臣秀吉が小田原征伐おだわらせいばつ(1590年)で攻め込む際、「難攻不落の小田原城おだわらじょう」という評判が広まっていたのは、氏康うじやすが整えた防衛体制があってこそです。

晩年と死(1571年)

1569年、武田信玄たけだしんげん甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいを破り駿河に侵攻すると、氏康うじやすは今川氏真を救援し武田と敵対します。追い詰められた氏康うじやす上杉謙信うえすぎけんしんと和睦し(相越同盟そうえつどうめい)、かつての宿敵と手を組む判断を下しました。これを「越相同盟えつそうどうめい」(1569年)といいます。

しかし氏康うじやすは1571年(元亀2年)、57歳で死去します。死の間際、嫡男・氏政うじまさに「信玄と和睦して武田との関係を回復せよ」と遺言したと伝わりますが、後継の氏政うじまさ・氏直は最終的に豊臣秀吉の小田原征伐おだわらせいばつ(1590年)で敗れ、後北条氏ごほうじょうしは滅亡します。

評価

北条氏康ほうじょううじやすは「武勇」だけでなく「政治力・内政力」でも高く評価される戦国大名です。河越夜戦かわごえやせん河越城の戦いかわごえじょうのたたかい)での逆転劇・上杉謙信うえすぎけんしんとの長期持久戦・三国同盟の構築と柔軟な外交、そして領民を大切にした治世は、後の歴史家から「理想的な戦国大名」のひとつとして語られます。

年表

1515年:相模さがみに生まれる(北条氏綱ほうじょううじつなの嫡男)
1541年:家督を継ぎ後北条氏ごほうじょうし3代目当主となる
1546年:河越夜戦かわごえやせん河越城の戦いかわごえじょうのたたかい)で上杉連合軍を撃破
1554年:甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいを締結(武田信玄たけだしんげん今川義元いまがわよしもとと)
1559〜61年:上杉謙信うえすぎけんしんの関東遠征を小田原籠城で撃退
1569年:武田信玄たけだしんげん駿河侵攻するがしんこうを機に越相同盟えつそうどうめい上杉謙信うえすぎけんしんと和睦)
1571年:57歳で死去

まとめ

北条氏康ほうじょううじやすは、祖父・北条早雲ほうじょうそううんが蒔いた種を大きく育て、後北条氏ごほうじょうしの全盛期を作った武将です。河越夜戦かわごえやせん河越城の戦いかわごえじょうのたたかい)での奇跡的な逆転、上杉謙信うえすぎけんしんとの粘り強い持久戦、三国同盟による外交バランス——そのどれもが戦国時代を象徴する出来事でした。民を思う内政も含め、氏康うじやすの統治は後世に長く語り継がれています。

参考資料

小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。
小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。

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