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武田勝頼とは?長篠で敗れた悲運の武将をわかりやすく解説

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武田信玄たけだしんげんの後継者として甲斐かいを受け継いだ武田勝頼たけだかつより(1546〜1582年)。「長篠の戦いながしののたたかい」での敗北で父が作り上げた武田軍団の精鋭を失い、わずか7年で武田家を滅亡に導いた悲劇の武将として知られます。しかし一方で、信玄しんげん亡き後も北条・上杉・織田・徳川を相手に奮闘し続けた指揮官としての姿も再評価されています。

3行でわかる武田勝頼たけだかつより

武田信玄たけだしんげんの四男として生まれ、1573年に家督を継いだ。
長篠の戦いながしののたたかい(1575年)で織田信長徳川家康連合軍に大敗し、武田の精鋭を失った。
1582年、信長による武田征伐たけだせいばつで家臣の離反が相次ぎ、天目山てんもくざん甲斐かい)で自刃。戦国最強と謳われた武田家はわずか9年で滅亡した。

基本プロフィール

生没年1546年(天文15年)〜1582年3月11日(天正てんしょう10年)
享年36〜37歳
出身甲斐かい国(現在の山梨県)
武田信玄たけだしんげん
諏訪御料人すわごりょうにん諏訪頼重すわよりしげの娘)
主な出来事長篠の戦いながしののたたかい(1575年)、武田家滅亡(1582年)

出自と家督相続

勝頼かつより武田信玄たけだしんげんの四男ですが、母が諏訪御料人すわごりょうにん(諏訪氏の娘)だったため、本来は諏訪家の後継者として「諏訪勝頼すわかつより」を名乗っていました。武田家の後継者として正式に位置づけられたのは、長男・義信が廃嫡はいちゃくされた後のことです。

1573年(天正てんしょう元年)4月、父・武田信玄たけだしんげん三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかいの後に病死(一説には西上作戦せいじょうさくせんの途中で陣没)。遺言により、勝頼かつよりは武田家の家督を相続します。しかし父の死は秘密にされ、武田軍は一時的に西上作戦せいじょうさくせんを継続した後、甲斐かいへ引き返しました。

長篠の戦いながしののたたかい(1575年)と武田軍の転換点

家督相続後の勝頼かつよりは積極的な領土拡大を続け、高天神城たかてんじんじょう遠江とおとうみ)の攻略など軍事的な成果も上げました。しかし1575年(天正てんしょう3年)5月21日、三河国・設楽原したらがはら(現在の愛知県新城市)で行われた長篠の戦いながしののたたかいが武田家の命運を大きく変えました。

信長・家康の連合軍は堅固な馬防柵ばぼうさくを構築し、多数の鉄砲を揃えて武田軍を待ち受けました。勝頼かつよりは武将たちの反対を押し切って攻撃を強行。武田の精強な騎馬隊は馬防柵ばぼうさくと鉄砲の前に甚大な被害を受け、山県昌景やまがたまさかげ内藤昌豊ないとうまさとよ馬場信春ばばのぶはるら歴戦の重臣たちが次々と戦死しました。

なお「信長が3,000挺の鉄砲を三段撃ちで用いた」という有名な通説については、史料的な根拠が乏しく、後世に誇張・創作された部分が大きいという見解が近年では有力です。実際には多数の鉄砲が使用されたことは確かですが、「三段撃ち」という戦術の存在は史料で確認されていません。

長篠ながしの後の苦境と家臣の離反

長篠ながしのの敗戦で武田家は多くの重臣と兵を失いました。しかし勝頼かつよりは諦めず、新たな家臣団を編成して対抗しようとします。新府城しんぷじょう甲斐かい)の築城を進め、新しい拠点を整えようとしますが、この大規模普請ふしんが家臣・民衆の疲弊をさらに招いたとも言われます。

また、1580年(天正てんしょう8年)には徳川家康が高天神城たかてんじんじょうを包囲し、勝頼かつよりが救援できないうちに高天神城たかてんじんじょうが落城。これにより「武田はもはや家臣を守れない」という印象が広まり、家臣団の信頼が大きく揺らぎました。

武田家の滅亡(1582年・甲州征伐こうしゅうせいばつ

1582年(天正てんしょう10年)2月、織田信長は大規模な武田征伐たけだせいばつを開始します。織田・徳川・北条・木曽の連合軍が四方から甲斐かい・信濃を攻め込み、武田軍は次々と崩壊しました。

重臣・木曽義昌きそよしまさの離反から始まり、穴山梅雪あなやまばいせつ勝頼かつよりの義弟)も離反。勝頼かつよりを守る武将は急速に減り、ついには数十人の供のみになりました。勝頼かつより甲斐かい岩殿城いわどのじょう小山田信茂おやまだのぶしげの城)に逃げ込もうとしましたが、小山田信茂おやまだのぶしげも裏切り拒絶します。

行き場を失った勝頼かつより甲斐かい天目山てんもくざん(田野)で最後の抵抗を試みましたが、1582年3月11日、妻の北条夫人ほうじょうふじん(北条氏の娘)とともに自刃しました。武田家はここに滅亡し、信玄しんげんが積み上げた「甲斐かいの虎」の家名は断絶しました。

評価:「凡将」か「悲運の武将」か

勝頼かつよりはかつて「父・信玄しんげんの偉大さを引き継げなかった凡将」というイメージで語られることが多くありました。しかし近年の研究では、より客観的な評価がなされています。

高天神城たかてんじんじょう攻略や上野・遠江とおとうみへの侵攻など、勝頼かつより自身の軍事的成果は決して小さくありません。また、長篠ながしの信玄しんげん期の重臣たちを失った後も、信長・家康・北条という三方の強大な敵と渡り合い続けたことは、むしろ健闘といえます。

家臣の相次ぐ離反については、信玄しんげん期から根付いていた「一門・宿老中心の合議制」を変えようとした勝頼かつよりへの反発も一因とする見方があります。勝頼かつよりは「時代の変化に適応しようとしたが、間に合わなかった武将」という評価が歴史学者の間では増えています。

年表

1546年:甲斐かい国(山梨)に生まれる(武田信玄たけだしんげんの四男)
1565年ごろ:諏訪家の名跡を継ぎ「諏訪勝頼すわかつより」を名乗る
1572〜73年:父・信玄しんげん西上作戦せいじょうさくせんに参加
1573年:信玄しんげんの死去により武田家当主となる
1574年:高天神城たかてんじんじょう攻略(遠江とおとうみ
1575年5月21日:長篠の戦いながしののたたかい設楽原したらがはらの合戦)で大敗
1580年:高天神城たかてんじんじょう陥落、武田の権威が低下
1581年:新府城しんぷじょうの築城開始
1582年2月:信長の甲州征伐こうしゅうせいばつ開始、家臣の相次ぐ離反
1582年3月11日:天目山てんもくざん甲斐かい)で自刃、武田家滅亡

まとめ

武田勝頼たけだかつよりは、父・信玄しんげんの遺産を受け継ぎながら、強大な敵に囲まれた中で懸命に戦い続けた武将です。長篠ながしのの敗戦が武田家の転換点となり、その後の苦境は「信玄しんげんの偉大さの反動」として語られてきましたが、近年は勝頼かつより自身の能力や置かれた状況への再評価も進んでいます。

武田信玄たけだしんげんが作った「甲斐かい最強」の遺産を守り抜こうとした9年間は、戦国時代の「後継者の難しさ」を象徴する物語でもあります。

参考資料

小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。
小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。

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