MENU
記事を探す

岩倉使節団とは?明治日本が学んだ近代国家の姿

明治維新によって、日本は
「新しい国をつくる」決断をしました。

しかし問題は、
どうやって近代国家をつくればいいのか
誰も分かっていなかったことです。

そこで明治政府が選んだ方法は、
机上の議論ではありませんでした。

実際に世界を見に行く。

それが、
岩倉使節団(いわくらしせつだん)
でした。


目次

岩倉使節団とは|国家の中枢が海外へ渡った前代未聞の外交

岩倉使節団とは、
1871年から1873年にかけて、
明治政府が欧米諸国へ派遣した大規模な使節団です。

団長は、
岩倉具視

随行員には、

  • 大久保利通
  • 木戸孝允
  • 伊藤博文

といった、
明治政府の中枢そのものが名を連ねていました。

政府のトップ層が長期間日本を離れる――
これは、日本史上でも極めて異例の出来事です。


なぜ岩倉使節団は派遣されたのか|2つの大きな目的

岩倉使節団には、明確な目的がありました。

① 不平等条約の改正交渉

開国以来、日本は
治外法権や関税自主権を失った
不平等条約に縛られていました。

使節団は、
これを改正しようと試みます。

② 近代国家の実像を学ぶ

もう一つ、そして実はより重要だった目的が、
近代国家とは何かを、現地で学ぶこと
でした。

  • 政治はどう運営されているのか
  • 法律はどう作られているのか
  • 教育や軍隊はどう機能しているのか

それを、
自分たちの目で確かめる
ことが狙いでした。


世界を見て何を学んだのか|「日本はまだ足りない」

使節団は、

  • アメリカ
  • イギリス
  • フランス
  • ドイツ
  • オランダ

などを訪問します。

そこで彼らが痛感したのは、
日本はまだ近代国家とは言えない
という現実でした。

学んだポイント

  • 法律が国の根幹にあること
  • 教育が国民全体に行き渡っていること
  • 軍事力と産業力が結びついていること
  • 議会や憲法が政治を支えていること

特に、
「国は個人ではなく、制度で動いている」
という点は、大きな衝撃でした。


条約改正は失敗、それでも意味は大きかった理由

岩倉使節団は、
不平等条約の改正には失敗します。

理由は明確です。

  • 日本の法制度が未整備
  • 近代国家としての信頼が不足

列強は、
「まず国の中身を整えよ」
と判断したのです。

しかしこの失敗こそが、
日本にとって重要な成果でした。

条約改正の前に、
国家を完成させなければならない。

この認識が、
その後の改革を一気に加速させます。


史実で整理する|岩倉使節団の基本データ

ここで、史実として岩倉使節団を整理します。

派遣期間

  • 1871年〜1873年(明治4〜6年)

団長

  • 岩倉具視

主な随行員

  • 大久保利通
  • 木戸孝允
  • 伊藤博文 ほか

主な訪問国

  • アメリカ
  • イギリス
  • フランス
  • ドイツ

結果

  • 条約改正は未達
  • 近代国家モデルを大量に吸収

岩倉使節団が日本にもたらした影響

国内への影響

  • 憲法制定への意識の高まり
  • 教育制度(学制)の整備
  • 産業・軍事の近代化加速

制度改革とのつながり

  • 廃藩置県:国家の形を整える
  • 地租改正:国家財政を安定させる
  • 徴兵制:国家を守る力を持つ
  • 憲法制定:国家のルールを定める

岩倉使節団は、
これら改革の「答え合わせ」
をした存在でした。


岩倉使節団の本当の意味|「学んでから決める」という選択

岩倉使節団が示した最大の価値は、
「すぐに真似しなかった」ことです。

  • どの国の制度が日本に合うのか
  • 何を取り入れ、何を残すのか

それを慎重に考えた上で、
日本は独自の近代化を進めました。

つまり岩倉使節団は、
日本の進路を決めるための思考の旅
だったのです。


まとめ|岩倉使節団は「世界を見てから未来を決めた旅」だった

岩倉使節団は、
成功と失敗の両方を含む出来事でした。

条約改正には失敗した。
しかし、

  • 日本の現在地を知り
  • 目指すべき姿を定め
  • 改革の方向性を一本化した

という点で、
計り知れない価値を持っています。

岩倉使節団は、
明治日本が世界を鏡にして、自分の未来を決めた瞬間
だったのです。


次に読みたい関連記事

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次