身分や男女にかかわらず学ぶ機会を広げようとした大改革でしたが、学校建設費や授業料、子どもの労働力を失う負担から反発も起きました。学校が全国に根づくまでには、その後の制度改正が必要でした。
学制をひとことで表すと
学制は、1872年(明治5年)8月に公布された、全国共通の学校制度をつくるための法令です。日本を大学区・中学区・小学区に分け、小学校から大学までを一つの体系として整えようとしました。
目指したこと
家柄や身分に左右されず、男女ともに学び、近代国家を支える知識と技能を身につける社会です。
直面した現実
学校の費用は地域と家庭の負担が大きく、子どもは農家や商家の働き手でもありました。
ひこまる学校をつくれば、子どもたちはすぐ通えると思っていました。でも、授業料や家の仕事はどうしたんでしょう?
なぜ明治政府は学校制度を急いだのか
明治政府は、法律、税、軍隊、工場、鉄道を全国で動かそうとしていました。そのためには、読み書き、計算、外国語、科学技術を学んだ人材が必要です。制度だけを輸入しても、それを使う人がいなければ国は動きません。
政府は教育を個人の出世だけでなく、富国強兵を支える国家の基盤と考えました。一方、学制の趣旨には、一人ひとりが学問によって身を立てるという実用的な考えも示されています。国家のための教育と、個人のための教育が、最初から重なっていたのです。
江戸時代の学びと、何が違ったのか
江戸時代にも、武士が学ぶ藩校、町人や農民の子どもが学ぶ寺子屋、学者が開く私塾がありました。日本に教育がなかったわけではありません。
学制の新しさは、地域や身分ごとに存在した学びを、国が設計する全国共通の体系へ組み替えようとした点です。教える内容、学校の段階、教員の養成を国がそろえ、子どもを行政の制度のなかで把握するようになりました。
学制が描いた、壮大な学校網
それぞれの大学区に大学を置く構想でした。
中学校を全国へ配置する計画でした。
身近な地域に小学校を置く、非常に大規模な構想でした。
これはフランスの学区制を参考にした中央集権的な設計でした。しかし数字どおりの学校を短期間で建てることはできません。多くの学校は寺子屋、私塾、藩校など既存の教育施設を引き継ぎながら始まりました。
教室では何を学んだのか
初期の小学校では、読書、習字、算術、修身のほか、地理や理科など西洋の知識を取り入れた教科が重視されました。寺子屋の読み・書き・そろばんから、学年と時間割に沿う授業へ移ろうとしたのです。
ただし教科書も教員も不足し、外国の教材を翻訳した内容は子どもの生活から離れている場合がありました。制度は全国共通でも、授業の実態には大きな地域差がありました。
なぜ学校への反発が起きたのか
学校建設費や運営費、授業料の多くは地域と家庭が負担しました。農家や商家では子どもも働き手です。学校へ通わせれば、費用が増えるだけでなく家の仕事をする人が減ります。
同じ時期に地租改正と徴兵令も進み、税と兵役の負担が増えていました。政府の近代化が学校という形で生活へ入ってきたことに対し、各地で反対運動が起こり、学校が焼かれることもありました。人々が教育そのものを嫌ったと単純に考えるのではなく、費用と労働の問題を見る必要があります。
学制は、なぜ改められたのか
中央集権的な学制を改め、地域の事情を反映しやすい制度へ転換しました。
就学義務を再び強め、国の統制を戻しました。
小学校令・中学校令・帝国大学令などに分け、学校段階を整備しました。
教育に忠君愛国と儒教的道徳を強く結びつけました。
「誰でも学べる」と「国が教える」の両面
学校教育の普及は、身分にかかわらず学べる機会を広げ、識字、計算、専門知識を社会へ広げました。女性にも就学の方針が示されたことは大きな変化です。ただし高等教育へ進める人には、性別、地域、家の経済力による差が残りました。
また学校は、標準語、歴史、道徳、天皇への忠誠など、国が望む価値観を教える場にもなります。学制は人々の可能性を広げる制度であると同時に、国家が国民を育てる制度の始まりでした。
学制から、近代教育の流れを読む
参考資料
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2020年、64〜65頁・105頁・146〜151頁。
- 文部科学省『学制百年史』「学制の制定」。
- 文部科学省「我が国の義務教育制度の変遷」。
- 国立公文書館「日本のあゆみ」明治5年。


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