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明徳の乱とは?|足利義満が有力守護・山名氏を抑えた大事件

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明徳の乱めいとくのらん」という名前を聞いても、何が起きたのかすぐに思い浮かぶ人は少ないかもしれません。

1391年(明徳めいとく2年)、当時最大級の勢力を持っていた守護大名・山名氏やまなしが、将軍・足利義満あしかがよしみつと対立し、京都での戦いに敗れて勢力を大きく失いました。この記事では、なぜ山名氏やまなしほどの大勢力が没落したのか、そして義満よしみつにとってこの事件がどんな意味を持っていたのかを、出来事の流れとして整理します。

ひこまる

山名氏やまなしってそんなに大きな一族だったんだね!

やたまる

せやな。全国66カ国のうち11カ国も治めとったんじゃ。「六分の一殿ろくぶんのいちどの」って呼ばれとったくらいの大勢力じゃったんじゃぞ。

目次

結論:明徳の乱めいとくのらんはどういうものだったのか

明徳の乱めいとくのらんとは、1391年、十一カ国の守護を兼ねて「六分の一殿ろくぶんのいちどの」と呼ばれた山名氏清やまなうじきよ満幸みつゆきらが将軍・足利義満あしかがよしみつに対して京都で兵を挙げ、わずか数日の戦いで鎮圧された事件です。この戦いによって山名氏やまなしの勢力は大きく削られ、義満よしみつは有力守護大名を抑え込む将軍としての地位を一段と固めました。

明徳の乱めいとくのらんとは何か

明徳の乱めいとくのらんとは、1391年(明徳めいとく2年)12月、守護大名・山名氏やまなしの一族である山名氏清やまなうじきよ山名満幸やまなみつゆき山名義理やまなよしただが、将軍・足利義満あしかがよしみつに対して京都で兵を挙げ、年内のうちに鎮圧された事件です。

当時の山名氏やまなしは、一族で全国66カ国のうち11カ国の守護職を持つまでに勢力を広げており、その大きさから「六分の一殿ろくぶんのいちどの(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれていました。この乱は、そこまで力をつけた一族が、将軍の主導でわずか数日のうちに勢力を大きく削られるという、室町幕府の権力構造を象徴する出来事でした。

なぜ明徳の乱めいとくのらんは起きたのか

山名氏やまなしがあまりに大きくなりすぎていた

山名氏やまなしは、観応の擾乱かんのうのじょうらんや南北朝の動乱の中で功績を重ね、一族で11カ国もの守護職を握るようになっていました。一つの一族がこれほど多くの国を治める状態は、将軍の権力にとって大きな脅威になり得るものでした。義満よしみつは将軍として、いずれこの大勢力を抑え込む必要があると考えていたと見られています。

山名氏やまなしの中で後継ぎをめぐる対立があった

山名氏やまなしの中心人物だった山名時義やまなときよしが亡くなると、その後継をめぐって一族内に対立が生まれました。時義ときよしの子である時熙ときひろ氏之うじゆきと、山名氏清やまなうじきよ満幸みつゆき義理よしただ時義ときよしの兄弟やおいにあたる一族)との間に深い溝ができていたのです。義満よしみつはこの内部対立を見過ごさず、むしろ利用する側に回りました。

義満よしみつ山名氏やまなしどうしを戦わせ、最後に標的を変えた

義満よしみつは、まず氏清うじきよ満幸みつゆきらに命じて、対立する時熙ときひろ氏之うじゆきを討たせました。山名氏やまなしは自分たちの内輪争いで力を削られた形になります。ところが、その直後の1391年11月、義満よしみつ満幸みつゆき出雲国いずものくにの守護職から解任してしまいます。味方として使われたはずの満幸みつゆき氏清うじきよらは、自分たちが次の標的にされたと考え、ついに将軍に対して兵を挙げる決断をします。

ひこまる

味方のはずだった満幸みつゆきたちが、最後は将軍と戦うことになったのはなぜ?

やたまる

義満よしみつ氏清うじきよ満幸みつゆきに身内を討たせたあと、今度は満幸みつゆき自身を出雲守護から外したんじゃ。次は自分たちが狙われると思ったんじゃろうな。

誰が関わったのか

足利義満あしかがよしみつ:室町幕府3代将軍。有力守護大名の力を抑え、将軍権力を確立しようとしていました。

山名氏清やまなうじきよ:山名一族の中心人物の一人。満幸みつゆきとともに挙兵し、京都での戦いで命を落としました。

山名満幸やまなみつゆき:出雲守護を解任されたことが挙兵の直接のきっかけになった人物です。

山名義理やまなよしただ氏清うじきよ満幸みつゆきとともに挙兵しましたが、敗れて出家しました。

山名時熙やまなときひろ山名氏之やまなうじゆき義満よしみつ側にとどまり、乱の後も山名氏やまなしの家を存続させた人物です。乱後、山名氏やまなしの守護国の一部を受け継ぎました。

大内義弘おおうちよしひろ細川頼之ほそかわよりゆき・畠山基国・赤松義則:義満よしみつ側について戦った守護大名たちです。

どう進んだのか

経緯をミニフローで整理します。

  • 1370年代後半〜:山名氏やまなしが一族で11カ国の守護職を持つまでに勢力を拡大する
  • 1379年:康暦こうりゃくの政変。管領かんれい細川頼之ほそかわよりゆきから斯波義将しばよしまさに交代し、山名氏やまなしもこの政変に関わったとされる
  • 山名時義やまなときよしの死後:山名氏やまなしの中で時熙ときひろ氏之うじゆき氏清うじきよ満幸みつゆき義理よしただの間に対立が生まれる
  • 1390年(明徳めいとく元年):義満よしみつの命を受けた氏清うじきよ満幸みつゆきらが時熙ときひろ氏之うじゆきを攻める
  • 1391年11月:義満よしみつ満幸みつゆきを出雲守護から解任する
  • 1391年12月:満幸みつゆき氏清うじきよ義理よしただが兵を挙げ、複数の方面から京都へ進軍する
  • 1391年12月25日:義満よしみつが御所で軍議を開き、迎え撃つ方針を決める
  • 1391年12月30日:京都市中で激しい戦闘となり、氏清うじきよが討たれ、満幸みつゆき義理よしただは敗走する

結果どうなったのか

戦いはわずか数日で幕府側の勝利に終わりました。氏清うじきよは戦死し、満幸みつゆきは丹波へ逃れたのちに後に討たれ、義理よしただは出家して政治の場から退きました。

乱の後、山名氏やまなしが持っていた多くの守護職は没収され、義満よしみつ側についた大内義弘おおうちよしひろ・畠山基国・細川氏など他の守護大名たちに分け与えられました。義満よしみつ側にとどまった時熙ときひろ氏之うじゆきも、わずかな国の守護職を保つ形で家を存続させています。これにより、山名氏やまなしは11カ国を治める大勢力から、数カ国規模の一族へと大きく縮小しました。

室町時代全体への影響

明徳の乱めいとくのらんは、義満よしみつが有力守護大名を抑え込み、将軍権力を確立していく過程の重要な一歩でした。一つの一族があまりに大きな力を持つことの危険性を、義満よしみつ自身も他の守護大名たちも強く意識する出来事になったといえます。

この約8年後、義満よしみつは同じような構図で大内義弘おおうちよしひろを討つ「応永おうえいの乱」を起こします。明徳の乱めいとくのらんは、義満よしみつが有力守護大名を一つずつ抑えていく、その最初の大きな成功例だったともいえるでしょう。

関連人物・関連出来事

足利義満あしかがよしみつ明徳の乱めいとくのらんを主導し、将軍権力の確立を進めた室町幕府3代将軍

斯波義将しばよしまさ細川頼之ほそかわよりゆき明徳の乱めいとくのらんの前段にあたる康暦こうりゃくの政変に関わった管領かんれい経験者

応永おうえいの乱:明徳の乱めいとくのらんと似た構図で、義満よしみつ大内義弘おおうちよしひろを討った事件

室町時代の出来事一覧:室町時代全体の出来事の流れを確認できる年表記事

まとめ

明徳の乱めいとくのらんは、1391年、十一カ国の守護を兼ねて「六分の一殿ろくぶんのいちどの」と呼ばれた山名氏やまなしが、将軍・足利義満あしかがよしみつとの戦いに敗れ、勢力を大きく削られた事件です。山名氏やまなし内部の対立を足利義満あしかがよしみつが利用し、最後は自らその矛先を一族全体に向けたこの乱は、室町幕府において将軍がどのように有力守護大名を抑え込んでいったかを示す、重要な出来事でした。

現代への学び

大きくなりすぎた力は、組織の内部からほころびが生まれやすくなります。山名氏やまなしの内部対立は、外部の将軍によってさらに利用される形になりました。一つの組織やチームが急速に大きくなるとき、内側の結びつきをどう保つかという問いは、現代にも通じるところがあるかもしれません。

ひこまる

山名氏やまなし、最後はどうなったの?

やたまる

氏清うじきよは戦で討たれ、満幸みつゆきも後に討たれた。残った時熙ときひろ氏之うじゆきだけが、わずかな国を守って家を続けたんじゃぞ。

関連記事(ジャパレキ内)

参考資料・参考図書(外部のみ)

  • 『戦乱と政変の室町時代』(参考資料PDF・OCR版)
  • 明徳の乱めいとくのらん」「山名氏やまなし」「足利義満あしかがよしみつ」 – Wikipedia
  • 明徳の乱めいとくのらん」 – コトバンク(国史大辞典・日本大百科全書)
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