2026年8月– date –
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出来事
江戸無血開城とは?勝海舟と西郷隆盛はなぜ総攻撃を止めたのか
江戸無血開城の重要な点は、戦いではなく交渉によって大都市・江戸を戦火から守ったことです。これは1868年(慶応4年)、新政府軍による江戸城総攻撃を交渉で回避し、旧幕府が江戸城を明け渡した出来事です。旧幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛が、徳川... -
出来事
鳥羽伏見の戦いとは?なぜ旧幕府軍は大軍でも敗れたのか
鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の勝敗の方向を決めた最初の戦いです。この戦いは1868年(慶応4年)1月、京都南郊で新政府軍と旧幕府軍が衝突した戊辰戦争最初の本格的な戦いです。旧幕府軍は兵数で上回りながら、指揮の不統一、装備・戦術の差、そして「錦の... -
出来事
第二次長州征伐とは?なぜ幕府の大軍は長州藩に敗れたのか
第二次長州征伐を理解する鍵は、幕府が圧倒的な兵力を集めながら長州藩を屈服させられなかった点にあります。この戦争は1866年(慶応2年)、幕府が長州藩を再び処分しようとして起こした戦争です。幕府は多数の藩を動員しましたが、近代化した長州軍を破れ... -
出来事
薩長同盟とは?なぜ敵対していた薩摩藩と長州藩は手を結んだのか
薩長同盟とは、簡単にいえば1866年(慶応2年)1月、薩摩藩と長州藩が、幕府による長州処分へ共同で備えるために結んだ政治的な協力関係です。 両藩は禁門の変で敵同士でした。しかし長州藩は武器と政治的支援を必要とし、薩摩藩は幕府だけに国政を任せられ... -
出来事
高杉晋作と功山寺挙兵|なぜわずかな兵で長州藩を変えられたのか
高杉晋作の功山寺挙兵が持つ最大の意味は、禁門の変と第一次長州征伐で追い詰められた長州藩を、幕府への恭順から武備恭順・倒幕へ転換させた藩内政変です。 高杉は1864年(元治元年)12月、下関の功山寺で少人数とともに挙兵しました。奇兵隊などが加わり... -
出来事
禁門の変とは?なぜ長州藩は京都で敗れ、朝敵になったのか
禁門の変で起きたのは、1864年(元治元年)7月、京都から追放されていた長州藩が朝廷での立場を取り戻そうとして進軍し、会津藩・薩摩藩などに敗れた戦いです。 長州藩は「朝敵」とされ、京都市中は大火に見舞われました。この敗北は第一次長州征伐と藩内... -
出来事
池田屋事件とは?新選組はなぜ尊王攘夷派を襲撃したのか
池田屋事件をひとことで表すと、1864年(元治元年)6月5日、京都の治安を守る新選組が旅館・池田屋を襲撃し、長州藩系を中心とする尊王攘夷派の志士を殺傷・捕縛した事件です。 事件は新選組の名を広く知らしめる一方、京都から追放されていた長州藩を刺激... -
出来事
八月十八日の政変とは?なぜ長州藩と尊王攘夷派は京都から追放されたのか
この政変の核心は、急進的な尊王攘夷派と長州藩が主導していた京都の政治を、薩摩藩・会津藩と公武合体派の公家がひっくり返した政変です。 1863年(文久3年)8月18日、長州藩は京都御所の警備から外され、尊王攘夷派の公家七人も京都を去りました。この出... -
思想・価値観
『私たちの精神――武士道を読み解く』全10記事まとめ|武士道は時代でどう変わったか
新渡戸稲造『武士道』への素朴な問いから始まったシリーズ全10記事のまとめです。鎌倉時代から現代まで、武士道という言葉が時代ごとにどう組み立て直されてきたかを、思想の骨格(第1部)と時代ごとの変化(第2部)に分けて紹介します。 -
思想・価値観
戦後、武士道はどう語られてきたのか?――武道の復活、企業倫理への転用、そして現代への問い
敗戦後、武道は国家主義・軍国主義に加担したものとしてGHQにより一時禁止され、スポーツとして再出発しました。一方で学術研究では、新渡戸稲造の武士道像そのものへの批判も根強くあります。「現代日本人に武士道が残っている」と一括りに断定できない理由と、良い面・危うい面の両方を考えます。
