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江戸無血開城とは?勝海舟と西郷隆盛はなぜ総攻撃を止めたのか

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江戸無血開城の重要な点は、戦いではなく交渉によって大都市・江戸を戦火から守ったことです。これは1868年(慶応4年)、新政府軍による江戸城総攻撃を交渉で回避し、旧幕府が江戸城を明け渡した出来事です。旧幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛が、徳川慶喜の処遇と城の引き渡し条件を協議したことで、人口の多い江戸が大規模な戦場になることを防ぎました。

ただし、これは戊辰戦争そのものの終結ではありません。新政府に従わない旧幕府勢力は上野や東北、北海道で戦いを続けました。

江戸無血開城をひとことでいうと

観点内容
いつ1868年3月に交渉、4月11日に江戸城を明け渡し
旧幕府側勝海舟、徳川慶喜ら
新政府側西郷隆盛を中心とする東征軍
争点慶喜の処遇、江戸城・軍艦・武器の引き渡し
結果予定された江戸城総攻撃を中止し、戦闘をせず開城

なぜ江戸が攻撃されようとしたのか

鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府は、徳川慶喜を追討するため軍を東へ進めました。慶喜は江戸へ戻った後、上野寛永寺で謹慎し、朝廷に従う意思を示します。

しかし新政府側には、旧幕府の軍事力を解体しなければ新体制を確立できないという判断がありました。江戸城総攻撃は3月15日に予定され、戦いになれば城下の住民を巻き込む大きな被害が予想されました。

勝海舟と西郷隆盛はどう動いたのか

旧幕府側で軍事を任された勝海舟は、戦えば江戸が焼け、多数の住民が犠牲になると考えました。その一方で、交渉が決裂した場合に備える構想も持ちながら、新政府軍との和平を探ります。

新政府軍の中心人物だった西郷隆盛は、勝との会談に応じました。両者は3月13日と14日に薩摩藩邸で協議し、徳川慶喜の処遇や江戸城、軍艦、武器の引き渡しなどについて条件をまとめました。

何が合意されたのか

主な論点合意の方向
徳川慶喜水戸で謹慎させる
江戸城新政府側へ明け渡す
軍艦・武器旧幕府側から新政府側へ引き渡す方向で処理する
旧幕府家臣城外へ移し、抵抗を抑える

条件にはその後の調整もありましたが、総攻撃は中止され、4月11日に江戸城が戦闘なく引き渡されました。「無血開城」とは、江戸城をめぐる大規模な戦闘が避けられたことを指します。

なぜ交渉は成立したのか

勝海舟が徳川家の存続と住民保護を両立させようとした

旧幕府軍が徹底抗戦すれば、江戸の町と住民に甚大な被害が及び、徳川家の立場もさらに悪化します。勝は降伏を受け入れながら、慶喜と徳川家を守る道を選びました。

西郷隆盛にも総攻撃を避ける利益があった

新政府にとっても、巨大都市での市街戦は多数の犠牲と長期戦を招きます。江戸城と旧幕府の軍事力を引き渡させられるなら、戦わずに目的を達成する方が新政権の安定につながりました。

両者に交渉の土台があった

勝と西郷は以前から面識があり、相手の考え方と力量を知っていました。個人的な信頼だけで決まったわけではありませんが、短い時間で現実的な合意を作る助けになりました。

江戸無血開城で戦争は終わったのか

江戸城は引き渡されましたが、すべての旧幕府家臣が新政府に従ったわけではありません。彰義隊は上野で抵抗し、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結びます。さらに旧幕府海軍の一部は榎本武揚とともに北海道へ向かいました。

つまり江戸無血開城は、徳川家を中心とする旧幕府の組織的支配を終わらせた大きな転換点でしたが、戊辰戦争の一段階にすぎませんでした。

まとめ

江戸無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の交渉によって江戸城総攻撃を止め、旧幕府から新政府へ城を引き渡した出来事です。勝は徳川家と江戸の住民を守ろうとし、西郷は大きな犠牲を払わず新政府の目的を達成しようとしました。

この決断によって江戸は大規模な戦火を免れました。しかし不満を抱く旧幕府勢力の抵抗は続き、次の上野戦争、東北戦争、箱館戦争へとつながっていきます。

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