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津田梅子とは?6歳で渡米した女子留学生が、日本の女子教育を変えるまで

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1871年(明治4年)。
わずか6歳の少女が、
太平洋を渡りました。

津田梅子つだうめこ
のちに、日本の女子教育を大きく変える人物です。

2024年(令和6年)、
新5千円札の肖像に選ばれたことで、
その名を知った人も多いのではないでしょうか。

梅子は、
なぜ幼くして海を渡り、
何を持ち帰ったのか。


目次

プロフィール|津田梅子の基本情報

  • 生年:1864年(元治元年)
  • 没年:1929年(昭和4年)
  • 出身:幕臣・農学者だった津田仙の次女
  • 主な功績:女子英学塾(現・津田塾大学)の創設
  • 時代:明治〜昭和時代

6歳で岩倉使節団に随行した女子留学生

1871年(明治4年)、
梅子は、欧米を視察する岩倉使節団いわくらしせつだんに随行する
5人の女子留学生の一人として、アメリカへ渡ります。

わずか6歳。

言葉も、暮らしも、まったく違う国で、
梅子は英語、生物学、美術、音楽などを学びます。

1882年(明治15年)、
11年間の留学を終えて帰国しました。

岩倉使節団については、こちらでくわしく解説しています。
岩倉使節団とは?明治日本が学んだ近代国家の姿


日本に戻って気づいた「立場の弱さ」

幼少期をアメリカで過ごした梅子にとって、
帰国後に見た日本は、
違和感の連続でした。

西洋諸国にくらべて、
日本の女性の社会での立場が弱い。

そう痛感した梅子は、
教育の必要性を強く意識するようになります。

伊藤博文の推薦で、
華族女学校(現・学習院女子大学)の教授となったのち、
1889年(明治22年)に再びアメリカへ留学。

障害者福祉の向上に尽力したアメリカ人のヘレン・ケラーや、
看護師の育成に尽力したイギリス人のナイチンゲールらと交流しました。


女子英学塾の創設|「国際人としての教養と人格」

1900年(明治33年)、
梅子は女子英学塾(現・津田塾大学)を創設します。

掲げたのは、

国際人としての教養と人格を高める

という理念でした。

語学だけを教えるのではない。
一人の人間として、社会と対等に向き合える女性を育てる。

それが、梅子の目指した教育でした。


新5千円札の肖像に採用された理由

教育への貢献が高く評価され、
梅子は2024年(令和6年)発行の新5千円札の肖像に採用されました。

制度を変えた政治家ではなく、
一人の教育者が紙幣の顔に選ばれる。

そこには、
「教育によって社会を変える」という梅子の生き方への評価が込められています。


まとめ|津田梅子とはどんな人物だったのか

津田梅子は、

  • 6歳で海を渡り
  • 異国で学び
  • 日本の女性の立場の弱さに気づき
  • 教育によってそれを変えようとした

人物でした。

明治という時代は、
制度だけでなく、
一人の女性の生き方によっても、
少しずつ変えられていったのです。

ひこまるとやたまるで理解するポイント

ひこまる

6歳で外国へ渡るなんて、津田梅子はどんな経験をしたの?

やたまる

幼い時期に長くアメリカで学び、帰国後は日本女性が学べる場の少なさに直面したんじゃ。その経験が女子教育へ向かう原点になったと考えると分かりやすいぞ。

ひこまる

学校をつくったことだけが、津田梅子の功績なの?

やたまる

それだけではないぞ。女性が自分の力で学び、社会で役割を担える道を広げようとしたことに大きな意味があるんじゃ。

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出典:大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、267頁。

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