薩摩と長州。
長らく敵対していた二つの藩を結びつけたのは、
一人の長州藩士でした。
木戸孝允、
かつての名を桂小五郎。
幕末には長州藩の代表として薩長同盟に関わり、
明治になってからは、国家の骨格そのものをつくる仕事に携わりました。
薩長同盟 敵対する藩を結ぶ
幕末、長州藩は幕府や薩摩藩と激しく対立していました。
その長州藩の代表として、木戸孝允は薩長同盟の交渉にあたります。
相手側の薩摩藩には西郷隆盛が、
そして両者の間には坂本龍馬が仲介役として立っていました。
敵対していた二藩が手を結んだこの同盟は、
のちの倒幕運動を大きく前進させることになります。
薩長同盟とは?なぜ敵対していた薩摩藩と長州藩は手を結んだのか
新政府の中央集権化を進める
明治維新後、木戸孝允は新政府の中枢で、
中央集権化という大きな課題に取り組みます。
大久保利通や諸藩の代表とともに、
版籍奉還、そして廃藩置県へと続く改革に関わりました。
藩という単位そのものをなくし、日本を一つの国家としてまとめ直す仕事です。
岩倉使節団への参加
1871年(明治4年)、木戸孝允は岩倉具視、大久保利通らとともに、
欧米諸国を視察する岩倉使節団に参加します。
西洋の制度や技術を自らの目で確かめた経験は、
帰国後の国内改革を進めるうえでの土台となりました。
慎重な現実主義者として
西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と並び称されることもある木戸孝允ですが、
その歩みは、二人とは異なる色合いを持っていました。
藩という枠組みを超えて、国家という新しい単位で物事を考える。
その転換を、性急にではなく、現実的な手順を踏みながら進めようとした人物として知られています。
長州藩の一藩士として時代を動かし、
やがて日本という国全体の制度を設計する側へ。
木戸孝允の歩みは、幕末から明治への転換そのものを映し出しています。
病床で西南戦争の行方を案じる
1877年(明治10年)1月、木戸孝允は病に倒れます。西郷隆盛が鹿児島で挙兵し、西南戦争が始まったのはその直後のことでした。
病床にあっても、木戸はかつての盟友が政府と戦う事態を気に病み続けました。そして同年5月26日、京都で息を引き取ります。享年45。うわごとのように「西郷、もう大抵にせんか」(西郷、もういい加減にしないか)と口にしていたと伝えられています。
本書は、維新後の木戸と西郷について、明治政府内でしだいに存在感を失ったと評価し、革命家ではあっても政治家としては力を発揮しきれなかったのではないかと問いかけています。これは著者による人物評価であり、確認できる経歴とは分けて読む必要があります。
ジャパレキでは、倒幕という理想を実現した木戸が、病と向き合いながら新政府の制度づくりに関わり続けた点に注目します。その生涯は、革命を成し遂げた人物が国家運営へ移る難しさを考える手がかりになります。
木戸が病没した同じ年に西郷隆盛が西南戦争で亡くなり、翌年には大久保利通も暗殺されました。三人を並べてたどると、木戸の死が明治政府の大きな世代交代の始まりでもあったことがわかります。
ひこまるとやたまるで理解するポイント
ひこまる桂小五郎と木戸孝允は、同じ人物なの?



同じ人物じゃ。幕末には桂小五郎の名で活動し、のちに木戸孝允と名乗ったんじゃよ。



木戸孝允は、倒幕だけを目指した人なの?



倒した後にどんな国をつくるかまで考えた人物なんじゃ。藩を超えた中央政府と人材育成を重んじた点が大切じゃぞ。
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出典:山村竜也『世界一よくわかる幕末維新』祥伝社、2018年、129〜134頁、228〜240頁、262頁。









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