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シベリア出兵とは?共同派兵が長期駐留へ変わった理由

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シベリア出兵は、1918年から1922年にかけて、日本を含む連合国がロシア革命後のシベリアへ軍隊を送った出来事です。

日本は当初、アメリカなどと歩調を合わせ、現地で孤立したチェコスロバキア軍を救援するという枠組みで出兵しました。

しかし実際には、派遣する兵力と行動範囲を大きく広げ、ほかの国が撤兵した後も駐留を続けます。

なぜ共同出兵は、日本の長期駐留へ変わったのでしょうか。

そこには、革命が東アジアへ広がることへの警戒、ロシア極東での権益、安全保障、陸軍の構想、列強との関係が重なっていました。

このページでは、シベリア出兵の始まりから撤兵までをたどり、日本国内の米騒動や、その後の対ソ関係へ与えた影響を整理します。

まず結論

シベリア出兵は、なぜ重要なのか

共同派兵の約束と各国の思惑がずれ、日本が目的と出口を定めにくいまま軍事行動を拡大した出来事だからです。

共同派兵として開始

チェコスロバキア軍の救援を掲げ、日本・アメリカなどが出兵しました。

日本だけが行動を拡大

革命への警戒や権益への関心が重なり、派兵規模と駐留期間が広がりました。

国内外に負担を残す

戦費と人的損失に加え、国内の不満や対米・対ロ不信を深めました。

目次

シベリア出兵とは?

シベリア出兵とは、ロシア革命とロシア内戦が続く中で、連合国がシベリアやロシア極東へ軍隊を派遣した軍事介入です。

日本の出兵は1918年8月に始まりました。

出兵には日本、アメリカ、イギリス、フランスなどが参加し、共同派兵の形を取りました。

しかし、各国の目的には隔たりがありました。

第一次世界大戦中、革命後のロシアはドイツとの戦争から離脱しました。イギリスとフランスは東部戦線が崩れることを警戒し、ロシアに送った軍需物資やシベリア鉄道を守ろうとします。

一方、アメリカは大規模な対革命戦争に慎重で、出兵目的をチェコスロバキア軍の救援と物資保護に限定しようとしました。

日本政府の中にも慎重論がありましたが、ロシア極東で影響力を広げる機会だと考える勢力もありました。

同じ地域へ出兵していても、各国が見ていた目的と終着点は違っていたのです。

なぜシベリアへ出兵したのか

ロシア革命で東部戦線が崩れた

1917年、ロシア革命によって帝政が倒れ、ボリシェヴィキ政権が成立しました。

新政権はドイツとの単独講和を進め、1918年3月にブレスト=リトフスク条約を結びます。

これにより、ドイツは西部戦線へ兵力を移せるようになりました。第一次世界大戦を戦う英仏にとって、ロシアの離脱は重大な問題でした。

チェコスロバキア軍の救援が共同目的になった

ロシア国内には、オーストリア=ハンガリー帝国からの独立を目指すチェコ人・スロバキア人の部隊がいました。

この部隊はシベリア鉄道を通り、ウラジオストクから西部戦線へ移動する計画でしたが、ロシア内戦に巻き込まれます。

アメリカはこの部隊の救援を理由に、日本へ共同出兵を提案しました。

日本は派兵地域と兵力を限定する方針を示し、1918年8月に出兵を始めます。

日本独自の不安と期待があった

日本政府と軍部は、チェコスロバキア軍の救援に加えて、ロシア極東の情勢を重視していました。

革命思想が朝鮮や中国、日本国内の社会運動へ影響することへの警戒がありました。また、満洲と接するロシア極東の安定は、日本の安全保障と権益に直結すると考えられていました。

軍部や政治家の一部には、反ボリシェヴィキ勢力を支援し、シベリアに日本へ友好的な政権をつくる構想もありました。

共同派兵の理由と、日本国内の狙いが一致していなかったことが、その後の行動拡大につながります。

なぜ日本の出兵は長期化したのか

当初の範囲を越えて軍を進めた

日本軍はウラジオストク周辺だけでなく、シベリア鉄道に沿って内陸へ進出しました。

アジア歴史資料センターは、日本が連合国の中で最大規模の兵力を送り、バイカル湖付近まで行動範囲を広げたと説明しています。

これは、限定的な救援を想定していたアメリカとの不信を深めました。

支援した勢力が安定した政権をつくれなかった

日本を含む連合国は、ボリシェヴィキに反対する勢力を支援しました。

しかし反革命側は、政治方針も利害も一つではありませんでした。各地の政権や軍事指導者は対立し、住民の支持を安定して得ることもできませんでした。

支援する相手が安定しないため、軍を置き続けても明確な政治的成果を得にくい状態が続きました。

撤兵すると影響力を失うという判断が働いた

第一次世界大戦が終わり、1919年ごろから各国は撤兵へ向かいます。

それでも日本は、革命政権への警戒やロシア極東での立場を理由に駐留を続けました。

軍を送った後に目的が広がると、撤兵は「成果を捨てること」と受け取られやすくなります。犠牲と費用を払ったからこそ、引く判断が難しくなるのです。

シベリア出兵の長期化は、軍事行動を始める前に、目的・範囲・終了条件を明確にする重要性を示しています。

シベリア出兵はどのように進んだのか

出来事の流れ

革命から撤兵まで

1917年

ロシア革命が起こり、ボリシェヴィキ政権が成立しました。

1918年8月

日本はアメリカなどとシベリアへ出兵しました。

1919年以降

各国が撤兵へ向かう一方、日本は単独に近い形で駐留を続けました。

1920年

尼港事件後、日本は北樺太を占領し、撤兵問題はさらに複雑になりました。

1922年10月

日本軍はシベリア本土から撤兵しました。北樺太からの撤退は1925年です。

日本国内にはどんな影響があったのか

米価高騰と米騒動の背景になった

1918年、日本各地で米騒動が起きました。

第一次世界大戦中の好景気、人口の都市集中、流通の問題などが重なり、米価はすでに上がっていました。そこへシベリア出兵が決まると、軍用米の需要増加を見込んだ投機や買い占めが広がります。

米騒動の背景には、戦時景気、都市人口の増加、流通、投機など複数の要因がありました。その中で、出兵をめぐる思惑が米価をさらに押し上げ、人々の生活不安を強めました。

軍事・外交政策が国内の暮らしへ直接影響した例といえます。

寺内正毅内閣が退陣した

米騒動が全国へ広がると、寺内正毅内閣は退陣します。

その後、立憲政友会総裁の原敬が首相となり、本格的な政党内閣が成立しました。

原内閣は撤兵へ方針を動かしましたが、軍の事情や現地情勢、尼港事件などが重なり、すぐには撤兵できませんでした。

ここにも、軍事行動を政治が統制し、終わらせることの難しさが表れています。

国際関係には何を残したのか

日本の大規模な派兵と長期駐留は、アメリカの警戒を強めました。

日米は共同出兵の形を取りながら、派兵目的と規模について同じ考えではありませんでした。日本が内陸へ軍を進めると、アメリカ側には、日本がロシア極東で領土や権益を拡大するのではないかという疑いが生まれます。

また、のちに成立したソビエト政権との関係にも不信を残しました。

日本は1922年にシベリア本土から撤兵しましたが、北樺太には1925年まで軍を置きました。同年の日ソ基本条約によって国交が樹立され、北樺太からも撤退します。

出兵は一時的な軍事行動で終わらず、戦後の東アジア外交へ長く影響したのです。

シベリア出兵から何を学べるのか

シベリア出兵では、出兵を始めた時点の説明と、実際の軍事行動が次第に離れていきました。

救援と物資保護を掲げた共同派兵は、反革命勢力への支援、ロシア極東での影響力確保、北樺太占領へと広がります。

目的が増えるほど、何を達成すれば終わるのかが分かりにくくなりました。

軍事行動を考えるときは、開始の理由だけでなく、行動の範囲を誰が決めるのか、情勢が変わった場合にどう見直すのか、どの条件で撤退するのかを見る必要があります。

シベリア出兵は、国際協調を掲げた政策でも、参加国の目的が違えば不信と長期化を招くことを示した出来事でした。

まとめ|シベリア出兵は、目的が広がった軍事介入だった

シベリア出兵は、ロシア革命後の混乱の中で、チェコスロバキア軍の救援などを掲げて始まった連合国の共同派兵でした。

しかし日本は、革命への警戒、安全保障、権益、軍部の構想を背景に派兵を拡大し、各国が撤兵した後も軍を残しました。

国内では米価高騰と政治不安の背景になり、国外ではアメリカやソビエト政権との不信を深めます。

歴史的に注目すべきなのは、出兵の名目と、その後の行動が離れていった過程です。

限られた共同作戦として始まった軍事行動が、目的と出口を失い、長期駐留へ変わっていった過程にあります。

参考資料・参考図書

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