第一次石油危機は、1973年10月に始まった第四次中東戦争をきっかけに、産油国が原油の供給削減と価格引上げを進め、世界経済が大きな衝撃を受けた出来事です。
当時の日本は、一次エネルギー供給の7割以上を石油に頼り、その多くを中東から輸入していました。
原油価格の急上昇は、電力、輸送、化学製品、工業製品、食料など幅広い価格へ波及します。供給が止まるという不安から、トイレットペーパーや洗剤などの買いだめも起きました。
1974年度の消費者物価は20.9%上昇し、日本経済は戦後初のマイナス成長を記録します。
ただし物価上昇と景気過熱は、石油危機の前から始まっていました。ニクソン・ショック、変動相場制への移行、列島改造ブーム、過剰流動性などで進んでいたインフレに、石油価格の高騰が重なりました。
中東の戦争から、日本の家計と工場へ
アラブ産油国が石油を外交手段として使用
供給削減と輸出価格引上げで輸入費用が急増
燃料・原料コスト上昇、品不足懸念、金融引締め
買いだめ、家計負担、設備投資減少、マイナス成長
危機の前、日本はなぜ石油へ大きく依存していたのか
1950年代後半から、日本のエネルギーの中心は国内炭から輸入石油へ移りました。
石油は扱いやすく、発熱量が高く、大型タンカーで大量輸送できます。中東の安価な原油を使うことで、鉄鋼、化学、電力、自動車などの産業は生産を急速に増やしました。
工場のボイラー、火力発電、自動車、船舶、家庭の灯油、合成繊維やプラスチックの原料まで、石油は経済と暮らしの広い範囲へ浸透します。
資源エネルギー庁によれば、危機当時、日本の一次エネルギーに占める石油の割合は77%で、その8割近くを中東からの輸入に依存していました。
安価で安定した輸入を前提にした成長は、供給地域の政治変動と価格急騰に弱い構造でもありました。
1973年10月、中東で何が起きたのか
1973年10月6日、エジプトとシリアがイスラエルへ攻撃し、第四次中東戦争が始まりました。
アラブ産油国は、イスラエルを支持する国へ圧力をかけるため、生産削減や国別の禁輸を進めます。
同じ時期、石油輸出国機構の加盟国は原油の公示価格を大幅に引き上げました。
供給をめぐる不安と価格引上げが重なり、国際原油価格は短期間に約4倍へ上昇します。
産油国の行動はすべて同じではありません。供給削減・禁輸を主導したアラブ石油輸出国機構と、価格決定で役割を持った石油輸出国機構を区別すると、石油が外交と資源主権の手段になった構造が見えます。
日本政府はどのように対応したのか
日本政府は、それまでの親イスラエル寄りと見られていた姿勢を修正し、11月にイスラエル軍の占領地からの撤退やパレスチナ人の権利を重視する方針を表明しました。
国内では石油・電力の使用節減を求め、広告照明、テレビ放送時間、暖房温度などの抑制を進めます。
物価と品不足に対応するため、政府は生活関連物資の標準価格や供給確保、投機的な買占め・売惜しみへの監視を強化しました。
金融面では日本銀行が公定歩合を引き上げ、政府は公共事業や民間設備投資を抑えて総需要を冷やしました。
供給危機と、すでに過熱していた国内需要の両方へ対応する必要があり、物価抑制策は景気を強く減速させました。
なぜトイレットペーパー騒動が起きたのか
1973年秋、石油が不足すれば紙もなくなるという情報や、政府が紙の節約を求めたという報道が広がりました。
大阪のスーパーで特売品に客が殺到した出来事が報じられ、買いだめが各地へ波及します。店頭在庫が減ると、品物が消えるという不安がさらに購入を促しました。
トイレットペーパーの主原料は石油ではありません。製造・輸送には燃料や電力が必要ですが、店頭の混乱は原料の物理的な枯渇だけで起きたものではありません。
将来の不足への不安、値上がり前に買おうとする行動、報道、流通在庫の限界が重なった現象です。
この騒動は、供給量そのものと、人々の予想による需要急増が市場でどのように連鎖するかを示しました。
物価と景気はどう変わったのか
原油は輸送、発電、化学、農業資材など多くの産業で使われます。輸入価格の上昇は企業の生産費を押し上げ、製品価格へ転嫁されました。
1974年度の消費者物価は20.9%上昇しました。物価高と景気後退が同時に進む状態はスタグフレーションと呼ばれます。
政府と日本銀行の総需要抑制策、原材料費の上昇、世界景気の後退によって、生産と設備投資は落ち込みました。
内閣府の現在の推計では、1974年度の実質経済成長率はマイナス0.5%で、年度として戦後初のマイナス成長です。
毎年高い成長が続くという企業と家計の前提が崩れ、日本経済は高度成長期から安定成長期へ移ります。
高度経済成長は石油危機だけで終わったのか
1960年代後半まで、日本は年平均10%前後の高い成長を続けました。
しかし1971年のニクソン・ショックで固定為替相場が揺らぎ、1973年には変動相場制へ移行します。
国内では田中角栄内閣の日本列島改造論への期待から、土地・株式・設備への投資が過熱し、石油危機前から物価が上がっていました。
第一次石油危機は、高い石油依存と既存のインフレを直撃し、成長の減速を決定的にしました。
高度経済成長の終わりは、一日で起きた変化ではありません。国際通貨制度、国内の景気過熱、資源価格、政策対応が重なった結果です。
危機の後、日本の産業とエネルギーはどう変わったのか
省エネルギー
企業は、同じ生産量に必要な燃料を減らす設備、排熱回収、工程改善を進めました。
資源エネルギー庁によれば、1973年度から1983年度まで実質GDPが増える一方、産業部門のエネルギー消費は減少しました。
省エネ法は1979年に制定されました。第一次・第二次の石油危機を通じて蓄積した政策を法制度化したものです。
石油備蓄と供給先の分散
政府と企業は、輸入が止まった場合に備える石油備蓄を拡大しました。1975年には石油備蓄法が制定され、民間備蓄が義務化されます。
海外の油田開発、産油国との関係強化、天然ガス・原子力・石炭など石油以外のエネルギー源の利用も進められました。
産業構造の転換
鉄鋼、石油化学、セメントなどエネルギーを多く使う素材産業は、設備と生産の見直しを迫られました。
自動車、電機、精密機械など、付加価値が高く、比較的エネルギー消費の少ない加工組立型産業の比重が高まります。
危機によって日本経済は縮小し、同時に、資源を効率的に使う技術と産業構造への転換が進みました。
第一次石油危機の流れ
アラブ産油国が供給削減を進め、原油価格も急上昇しました。
供給不安と値上がり予想が、生活用品の買いだめと流通混乱を起こしました。
インフレ抑制策と原料高で景気が後退し、高度成長の前提が崩れました。
石油依存の弱点を減らし、資源効率の高い経済へ移る政策と投資が進みました。
まとめ|安価な石油を前提にした高成長が転換した
第一次石油危機は、1973年10月の第四次中東戦争を機に、原油供給と価格が急変した出来事です。
石油依存度が高く、中東からの輸入に頼る日本では、燃料・原材料費が上がり、供給不安と買いだめが広がりました。
1974年度の消費者物価は20.9%上昇し、日本経済は戦後初のマイナス成長を記録しました。
物価高と高度成長の終わりを石油危機だけに求めることはできません。変動相場制、列島改造ブーム、危機前からのインフレ、金融・財政の引締めも景気を変えました。
危機後、日本は石油備蓄、供給先とエネルギー源の分散、省エネ技術、産業構造の転換を進めます。第一次石油危機は、資源を大量に輸入して使う成長モデルの弱点を示し、経済の優先順位を量的拡大から効率と安定供給へ変えた転換点です。
参考資料・参考図書
- 資源エネルギー庁「エネルギー白書2018|1970・80年頃」
- 資源エネルギー庁「石油がとまると何が起こるのか?」
- 資源エネルギー庁「日本のエネルギー150年の歴史④」
- 内閣府「原油・原材料価格の高騰と日本の物価・賃金」
- 内閣府「第1章 第2節 原材料価格の上昇」

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