「将軍を暗殺した武将」というと、ただの反逆者のように聞こえるかもしれません。しかし赤松満祐の生涯を追っていくと、そこには将軍に追い詰められ続けた一人の守護大名の姿が見えてきます。
赤松満祐は、播磨・備前・美作の守護を務めた室町時代中期の武将です。1441年(嘉吉元年)、自邸での宴に将軍・足利義教を招き、家臣に討たせて暗殺するという、室町時代を通じても前例のない行動に出ました。この記事では、満祐がどんな人物で、なぜそこまでの行動に踏み切ったのか、その生涯をたどりながら整理していきます。
ひこまる将軍を暗殺するなんて、ものすごい行動に出たんですね…満祐さんはどうしてそこまでしたんですか?



そこが大事なんじゃ、ひこまる。満祐は将軍にずっと追い詰められておってな、このまま黙っておれば自分の地位も命も危ういと思い込んでいったんじゃ。
赤松満祐の基本プロフィール
- 人物名:赤松満祐(あかまつ みつすけ)
- 生没年:1441年9月10日没。生年は1373年とする説と1381年とする説があり、史料によって見方が分かれています
- 時代:室町時代中期
- 主な肩書き:播磨・備前・美作の守護、侍所所司(四職の一家)
- 関係する出来事:嘉吉の乱
赤松満祐が生きた時代背景
満祐が生きたのは、室町幕府の将軍権力が強まったり弱まったりを繰り返していた時代です。
赤松氏は、後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府打倒に動き、その後は足利氏に従って播磨・備前・美作の守護となった一族で、侍所の長官である所司を務める「四職」の家柄として、幕府の中で重い地位を占めていました。
ただし、その地位は将軍からの信頼の上に成り立つものでもありました。将軍が代わり、その将軍が守護大名をどう扱うかによって、赤松氏のような有力守護の立場も大きく揺れることになります。満祐の人生は、この「将軍と守護大名の力関係」がもっとも不安定だった時期に重なっています。
赤松満祐の人生|従順な守護から、将軍を討つ守護へ
赤松満祐の人生は、4つの転機で見るとわかりやすくなります。
- 1. 父の死後、なかなか家督を継げなかった
- 2. 将軍・足利義教から冷遇され、所領を脅かされた
- 3. 「次は自分が討たれる」という疑心に追い詰められた
- 4. 将軍暗殺という前例のない行動に出て、その後滅亡した
父の死と家督争い|満祐はすぐには家督を継げなかった
満祐の父・赤松義則が亡くなったとき、満祐は本来の後継者でした。しかし当時の将軍・足利義持は、満祐ではなく一族の赤松持貞に守護職を継がせようとしました。満祐はこれに強く反発しましたが、持貞が不祥事によって切腹したことで、結局守護職は満祐に戻されています。
この一件は、家督を継ぐ立場であっても、将軍の意向ひとつで地位が左右されてしまうという、当時の守護大名の立場の不安定さをよく示す出来事でした。
義教の代になり、満祐への圧迫が強まっていった
将軍が足利義教に代わると、満祐への扱いはさらに厳しくなっていきます。義教は、自分の意に沿わない者を厳しく処罰する強権的な政治を行い、当時の人々から「万人恐怖」と評されるほどの将軍でした。
義教は満祐の従兄弟にあたる赤松満政を厚遇する一方で、満祐には所領の没収や守護職を取り上げる構えを見せるなど、満祐を精神的に追い詰めていきました。武家だけでなく公家にまで及んだ義教の弾圧は、満祐にとって他人事ではなくなっていたのです。
「次は自分が討たれる」という疑心が満祐を変えた
度重なる圧迫を受けるうち、満祐は「次は自分が義教に討たれるのではないか」という疑心に陥り、出仕しなくなっていたといわれています。当時の人々はこの様子を「狂乱」と噂したとも伝えられています。
将軍に逆らうことは、本来であれば一族の滅亡につながりかねない大きな賭けです。それでも満祐がその一歩を選んだ背景には、このまま何もしなければいずれ自分が排除されるという、追い詰められた末の判断があったと考えられています。
将軍暗殺、そして滅亡|満祐は何を守ろうとしたのか
1441年(嘉吉元年)6月24日、満祐の子・教康が京都の自邸で開いた宴に将軍・足利義教を招き、酒宴の最中に武者を乱入させて義教を暗殺しました。この事件が「嘉吉の乱」です。
満祐はその後播磨へ逃れますが、幕府軍の攻撃を受けて同年9月10日、籠城していた城山城で自害しました。将軍を討った満祐自身も、最終的には命をもってその行動の代償を払うことになったのです。
赤松満祐を語る上で欠かせない3つの場面
- 家督をめぐる将軍との対立:将軍・足利義持が満祐への守護継承を渋り、家中の立場が大きく揺らいだ場面
- 将軍・足利義教による弾圧:所領没収の構えや一族内の厚遇差によって、精神的に追い詰められていった場面
- 嘉吉の乱と最後の自害:将軍暗殺という前例のない行動に出て、最後は幕府軍に攻められて自害した場面
赤松満祐はなぜ将軍暗殺という道を選んだのか
満祐の行動を「ただの反逆」として見てしまうと、その背景にある事情が見えなくなります。
満祐が将軍暗殺という前例のない行動に出た背景には、将軍個人の強い権力によって守護大名の地位や所領がいつでも奪われかねないという、室町幕府の仕組みそのものの不安定さがありました。守護大名は将軍に従う存在でありながら、将軍の機嫌や判断ひとつで一族の存亡が左右されてしまう。満祐はその構造の中で、最後に追い詰められた一人だったといえます。



将軍に従うしかない立場なのに、逆らうなんてよっぽどのことですよね…



その通りじゃ。将軍の機嫌ひとつで所領も地位も奪われかねない。守護大名というのは、強い力を持っていても、将軍との関係次第で簡単に揺らぐ立場だったんじゃぞ。
考え方を深掘り|満祐は何を守ろうとしたのか
満祐が守ろうとしたのは、単に自分の地位や命だけではありませんでした。父・義則の代から続く赤松一族の所領と立場、四職という家の名誉。それらが将軍の一存で奪われていくことへの強い抵抗が、満祐を行動へ向かわせたと考えられます。
ただし、この行動が結果的に一族を滅亡へ導いたことも事実です。満祐の選択は、追い詰められた人間がどこまで踏み込んでしまうのかを示す、重い教訓としても読み取ることができます。
赤松満祐に関係する人物
- 足利義教:室町幕府6代将軍。強権的な統治で「万人恐怖」と評され、満祐を追い詰める側に回りました。
- 赤松教康:満祐の子。京都の自邸で宴を主催し、義教を招き入れました。
- 山名持豊(宗全):嘉吉の乱の討伐軍の中心となり、戦後に大きく勢力を伸ばした守護大名です。
赤松満祐に関係する出来事
嘉吉の乱:満祐が将軍・足利義教を暗殺し、その後幕府軍に攻められて滅亡した事件です。
赤松満祐の考え方・価値観
満祐の生涯から見えてくるのは、一族の地位と名誉を守ろうとする強い意志と、それが将軍権力という大きな力の前でどれほど脆いものだったかという現実です。
将軍に従い続けることも、将軍に逆らうことも、どちらも一族の存続を賭けた判断でした。満祐は、追い詰められた末に後者を選び、その結果として一族の滅亡という重い代償を払うことになりました。
現代への学び|赤松満祐
満祐の生涯は、組織や個人が強い圧力にさらされ続けると、どれほど極端な判断に踏み出してしまうことがあるかを示しています。
将軍と守護大名という主従関係であっても、一方的な圧迫が続けば関係そのものが崩れてしまう。これは現代の組織や人間関係においても通じる視点です。立場の強い側がどう力を使うかによって、関係全体の安定が大きく左右されるということを、満祐の行動は教えてくれます。
まとめ|赤松満祐は、将軍権力の不安定さを体現した守護大名
赤松満祐は、将軍・足利義教の弾圧に追い詰められた末に、将軍暗殺という前例のない行動に出た播磨守護です。その行動は室町幕府の権威を大きく揺るがし、満祐自身も最終的には幕府軍に攻められて自害しました。満祐の生涯は、将軍と守護大名の力関係がいかに不安定なものだったかを、もっとも鮮明な形で示しています。



結局、満祐さん自身も滅んでしまったんですね…なんだか切ないです。



そうじゃな。追い詰められて行動を起こしても、それが必ず良い結果を生むわけではない。満祐の生涯は、その重さを今に伝えてくれておるんじゃ。
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参考資料・参考図書
『戦乱と政変の室町時代』(参考資料PDF・OCR版/嘉吉の乱の経緯部分の参考として使用)
「赤松満祐」「嘉吉の乱」「足利義教」 – Wikipedia
「赤松満祐」 – コトバンク(日本大百科全書・国史大辞典)

