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斯波氏の家督争いとは?|管領家の内紛が応仁の乱の火種になった後継者争い

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応仁の乱おうにんのらんは、将軍家の後継争いだけが原因ではありません。同じ時期、将軍家に次ぐ名家である管領家でも、後継者をめぐる争いが同時に進んでいました。その一つが、斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいです。

斯波氏しばしは、足利将軍家の一族から分かれた有力守護大名で、細川氏・畠山氏とともに「三管領家」と呼ばれる名門でした。この斯波氏しばしの家督を、斯波義敏しばよしとし斯波義廉しばよしかどという二人の人物が何度も奪い合い、その対立は将軍・足利義政あしかがよしまさの判断と、細川勝元ほそかわかつもと山名宗全やまなそうぜんという幕府の二大勢力の対立を巻き込んでいきます。この記事では、斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいがどのように進み、なぜ応仁の乱おうにんのらんの火種の一つになったのかをたどります。

ひこまる

三管領家の一つで、こんな家督争いが起きていたんだね。

目次

結論ボックス

斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいは、「一つの家の中の問題が、家の外側の対立構造に取り込まれると、当事者だけでは収拾がつかなくなる」ことを示す出来事です。義敏よしとし義廉よしかど、どちらが家を継ぐかという内側の問題は、本来であれば斯波しば家だけで解決すべきものでした。しかし将軍・義政よしまさの介入と、細川勝元ほそかわかつもと山名宗全やまなそうぜんという後ろ盾の存在によって、家督争いは幕府全体を二分する応仁の乱おうにんのらんの構図に組み込まれてしまいました。後継者争いに外部の有力者を引き込むことの危うさを、この出来事はよく表しています。

出来事の基本情報

項目内容
名称斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそい武衛騒動ぶえいそうどう
時期1452年(享徳きょうとく元年)〜1467年(応仁おうにん元年)ごろ
主な当事者斯波義敏しばよしとし斯波義廉しばよしかど
関係した勢力将軍・足利義政あしかがよしまさ細川勝元ほそかわかつもと(東軍)、山名宗全やまなそうぜん(西軍)
主な結果義廉よしかどが管領に就任するも応仁の乱おうにんのらんを招き、家督争いは応仁の乱おうにんのらんの火種の一つとなった

斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいとは何か

斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいは、室町幕府の管領を出す三管領家の一つ・斯波氏しばしにおいて、1450年代から1460年代にかけて起きた後継者争いです。当主・斯波義健しばよしたけ嗣子ししなく亡くなったのち、一門の大野斯波家おおのしばけ出身の斯波義敏しばよしとしと、渋川氏出身で山名宗全やまなそうぜんと結びついた斯波義廉しばよしかどとの間で、家督と越前・尾張・遠江とおとうみの守護職をめぐる争いが繰り返されました。将軍・足利義政あしかがよしまさはそのたびに家督を入れ替える判断を下し、最終的に義廉よしかど山名宗全やまなそうぜんの後押しで管領にまで就任しますが、これが応仁の乱おうにんのらんの引き金の一つになっていきます。

なぜ起きたのか

直接のきっかけは、1452年(享徳きょうとく元年)に当主・斯波義健しばよしたけ嗣子ししのないまま死去したことでした。家督を継いだ斯波義敏しばよしとしは、越前・遠江とおとうみの守護代・甲斐常治かいつねはると実権をめぐって争い、将軍・足利義政あしかがよしまさの怒りを買って家督を子に譲らされます。

この争いがこじれた背景には、斯波しば家自体の事情に加えて、室町幕府全体の権力構造の不安定さがありました。将軍・義政よしまさは有力守護大名の家督に強く介入する一方、判断が一定せず、家督を何度も入れ替えています。さらに、家督を失った義廉よしかどが頼った山名宗全やまなそうぜんと、義敏よしとしを支援した細川勝元ほそかわかつもとという、幕府の二大勢力の対立が、もともとは斯波しば家内部の問題だった家督争いに重なっていきました。

やたまる

家の中の問題のはずなのに、なんで幕府全体の対立に重なっていくの?

関係人物・勢力の整理

人物・勢力家督争いとの関係
斯波義敏しばよしとし大野斯波家おおのしばけ出身。最初に家督を継ぐが、甲斐常治かいつねはるとの対立で将軍の怒りを買い、家督を奪われる。のちに細川勝元ほそかわかつもとの支援で家督に復帰
斯波義廉しばよしかど渋川氏出身。山名宗全やまなそうぜんの後押しで斯波しば家の養子となり家督を継承。応仁おうにん元年に管領に就任
足利義政あしかがよしまさ将軍。家督の相続・剥奪・復帰のいずれにも決定権を持ち、判断を何度も変えた
山名宗全やまなそうぜん義廉よしかどの後ろ盾。義廉よしかどを支援し、管領就任を後押しした西軍の総大将
細川勝元ほそかわかつもと義敏よしとしの後ろ盾。義敏よしとしを支援し、義廉よしかど・宗全方と対立した東軍の総大将

どう進んだのか

1452年(享徳きょうとく元年)、当主・斯波義健しばよしたけの死去にともない、斯波義敏しばよしとしが家督と越前・尾張・遠江とおとうみの守護職を継ぎました。しかし守護代・甲斐常治かいつねはるとの実権争いが深刻化し、将軍・足利義政あしかがよしまさの怒りを買った義敏よしとしは、家督を子に譲らされます。

1461年(寛正2年)、将軍義政よしまさの特命により、渋川氏出身で山名宗全やまなそうぜんと結びついた斯波義廉しばよしかどが、斯波しば家の家督を継ぐことになりました。

1466年(文正元年)、幕府は一転して義敏よしとしを家督に復し、越前・尾張・遠江とおとうみ3カ国の守護に任じます。家督を奪われた義廉よしかどは岳父・山名宗全やまなそうぜんを頼り、これが将軍側近の失脚(文正の政変ぶんしょうのせいへん)にまで発展しました。その結果、義敏よしとしの家督は再び剥奪され、義廉よしかどが改めて家督に任じられています。

1467年(応仁おうにん元年)1月、山名宗全やまなそうぜんの強い後押しを受けて、義廉よしかどは当時の管領・畠山政長はたけやままさながを退け、自ら管領に就任しました。しかし同じ年に応仁の乱おうにんのらんが始まると、義廉よしかど山名宗全やまなそうぜん方(西軍)の中心人物として扱われるようになります。

結果どうなったのか

斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいは、義廉よしかどの管領就任という形で一つの結末を迎えましたが、それは斯波しば家だけの問題では収まりませんでした。義廉よしかどを支えた山名宗全やまなそうぜんと、義敏よしとしを支えた細川勝元ほそかわかつもとの対立は、将軍家の後継問題(足利義視と足利義尚)、畠山家の家督争い(畠山政長はたけやままさなが畠山義就はたけやまよしひろ)と重なり合い、東軍・西軍に分かれた全国規模の戦乱・応仁の乱おうにんのらんへとつながっていきます。義廉よしかど自身も、応仁の乱おうにんのらんの最中に管領職と家督を失うことになりました。

ひこまる

一つの家の後継者争いが、まさか全国規模の戦乱になるなんて…。

簡易図解:斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいから応仁の乱おうにんのらん

斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそい義敏よしとし vs 義廉よしかど
義敏よしとし細川勝元ほそかわかつもと(東軍)が支援
義廉よしかど山名宗全やまなそうぜん(西軍)が支援
同時期に重なる他の家督争い
├ 足利将軍家(足利義視 vs 足利義尚)
└ 畠山氏(畠山政長はたけやままさなが vs 畠山義就はたけやまよしひろ
細川勝元ほそかわかつもと山名宗全やまなそうぜんがそれぞれの後継者争いに関与
応仁の乱おうにんのらん(東軍 vs 西軍)へ拡大

室町時代全体への影響

斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいは、単独では一つの家の内紛にすぎませんでした。しかし、同じ時期に進行していた将軍家・畠山家の家督争いと重なり、それぞれに細川勝元ほそかわかつもと山名宗全やまなそうぜんという幕府の二大勢力が関与したことで、室町幕府全体を二分する応仁の乱おうにんのらんという大乱に発展しました。応仁の乱おうにんのらんは10年余り続き、室町幕府の権威を大きく低下させ、戦国時代へとつながる転換点となっています。

関連人物・関連出来事

  • 斯波義廉しばよしかど:渋川氏出身で斯波しば家の養子となり、山名宗全やまなそうぜんの後押しで家督と管領職を得た当事者の一人です。
  • 斯波しば義将:斯波氏しばしの別世代の人物で、本記事の家督争いより前の時代に管領として活躍しました。
  • 応仁の乱おうにんのらん斯波氏しばし・畠山氏・将軍家それぞれの家督争いが重なり合って発展した、全国規模の戦乱です。
  • 御霊合戦ごりょうがっせん応仁の乱おうにんのらんの開戦直前に京都で起きた衝突で、畠山家の家督争いが武力衝突に至った事例です。
やたまる

後継者争いに外の力を借りると、後で痛い目を見ることもあるんだね。

現代への学び

組織の中で誰が後を継ぐかという問題は、一見すると内側だけの話に見えます。しかし斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいが示すように、後継者争いに外部の有力者が関わってしまうと、問題は一気に組織の外側まで広がり、当事者の手では収められなくなることがあります。後ろ盾を得て手にした地位ほど、その後ろ盾との関係が変わった瞬間に失われやすい。後継問題に第三者を引き込むことの重さを、この出来事は教えてくれます。

まとめ

斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいは、管領家の一つ・斯波氏しばしで起きた斯波義敏しばよしとし斯波義廉しばよしかどの後継者争いです。将軍・足利義政あしかがよしまさの介入によって家督が何度も入れ替わり、最終的に山名宗全やまなそうぜんの後押しを受けた義廉よしかどが管領に就任しました。しかし、この家督争いは細川勝元ほそかわかつもと山名宗全やまなそうぜんの対立、さらに将軍家・畠山家の家督争いとも重なり合い、応仁の乱おうにんのらんという全国規模の戦乱の火種の一つとなりました。一つの家の内側の問題が、外部の対立構造に取り込まれることで収拾がつかなくなる危うさを、この出来事はよく表しています。

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参考資料・参考図書

  • 斯波義廉しばよしかど」「斯波氏しばし」「斯波義敏しばよしとし」「応仁の乱おうにんのらん」 – Wikipedia
  • 斯波義廉しばよしかど」 – コトバンク(国史大辞典相当)
  • 歴史専門サイト各種(斯波氏の家督争いしばしのかとくあらそいの経緯・応仁の乱おうにんのらんとの関連に関する記述)
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