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後鳥羽上皇とは?承久の乱を起こした上皇の野望と孤独

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後鳥羽上皇ごとばじょうこうは、承久の乱じょうきゅうのらんを起こして鎌倉幕府に挑み、敗れて隠岐おきに流された悲劇の上皇だ。単なる「失敗した権力者」ではない。失われていく朝廷の力を取り戻そうとした強い意志の人物だった。承久の乱じょうきゅうのらんを「朝廷側」から理解するために欠かせない人物だ。

目次

後鳥羽上皇ごとばじょうこうの基本プロフィール

名前後鳥羽上皇ごとばじょうこう(ごとばじょうこう)
生没年1180年〜1239年
時代鎌倉時代
主な立場第82代天皇・院政いんせい(上皇として)
関係する出来事承久の乱じょうきゅうのらん(1221年)
流罪先隠岐おき(島根県)

後鳥羽上皇ごとばじょうこうが生きた時代背景

後鳥羽上皇ごとばじょうこうが生きた時代は、朝廷が長年持っていた権力を、武士に奪われていく過程だった。源頼朝みなもとのよりともが鎌倉幕府を開き、全国に守護・地頭を置いてから、武士の影響力は朝廷の領地にまで及ぶようになった。

しかし後鳥羽上皇ごとばじょうこうは、単なる「弱い朝廷の君主」ではなかった。文化・武芸・政治のすべてに卓越した才能を持ち、院政いんせいを通じて強い指導力を発揮した。和歌を愛し、『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』の編纂を命じた文化人でもある。

そんな後鳥羽上皇ごとばじょうこうが見ていたのは、幕府への不満だ。頼朝よりともの死後、幕府は北条氏に実権を握られ、朝廷は政治的に蚊帳の外に置かれていった。

後鳥羽上皇ごとばじょうこうの人生|栄光と転落

後鳥羽上皇ごとばじょうこうの人生は、4つの転機で見るとわかりやすい。

転機① 天皇から上皇へ——院政いんせいで権力を握る(1198年〜)

後鳥羽上皇ごとばじょうこうは19歳で皇位を譲り、上皇として院政いんせいを開始した。院政いんせいとは、退位した天皇(上皇・法皇)が政治を動かす仕組みで、後鳥羽上皇ごとばじょうこうはこれを使って朝廷政治の主導権を取り戻そうとした。

幕府とは必ずしも対立していたわけではなく、一定の協調関係を保ちながら政治を進めた時期もある。しかし北条義時よしときが実権を握るにつれ、後鳥羽上皇ごとばじょうこうの不満は高まっていった。

転機② 幕府への不満が高まる(1210年代)

頼家よりいえが幕府から排除され、実朝さねともも北条氏に実権を奪われていく様子を見ながら、後鳥羽上皇ごとばじょうこうは幕府の「北条専制」に警戒感を抱いた。

上皇は武士を院の御所に集め「北面の武士ほくめんのぶし」「西面の武士さいめんのぶし」を組織した。幕府に対抗できる軍事力を整えていたのだ。この準備が、後の承久の乱じょうきゅうのらんの布石となった。

転機③ 承久の乱じょうきゅうのらん——賭けに出た上皇の挑戦(1221年)

1221年、後鳥羽上皇ごとばじょうこうはついに北条義時よしときの追討令を発した。これが承久の乱じょうきゅうのらんの始まりだ。上皇は「全国の武士は朝廷に従うべきだ」と呼びかけたが、期待していた武士の多くは幕府側についた。

幕府は北条泰時やすときを総大将に、大軍を派遣した。北条政子まさこは御家人たちに「頼朝よりとも公の恩を忘れてはならない」と訴え、御家人の心をつなぎとめた。わずか1か月で戦いは決着し、後鳥羽上皇ごとばじょうこう方は完敗した。

転機④ 隠岐おきへの流罪——18年の孤島での日々(1221〜1239年)

敗れた後鳥羽上皇ごとばじょうこう隠岐おき(現・島根県隠岐おき諸島)に流された。60歳で崩御するまで、18年間を隠岐おきで過ごした。流罪中も和歌を詠み続け、その歌には「なぜ自分は負けたのか」という深い問いが込められているとも言われる。

ひこまる

お師匠!後鳥羽上皇ごとばじょうこうって、なぜ勝てると思って承久の乱じょうきゅうのらんを起こしたんですか?

やたまる

よい疑問じゃ。後鳥羽上皇ごとばじょうこうには根拠があったんじゃよ。西国の武士は朝廷との関係が深かったし、幕府内も安定していなかった。「今なら勝てる」という判断があったんじゃ。ただ、誤算だったのは御家人たちの多くが幕府側についたことじゃ。

ひこまる

つまり、武士たちは「朝廷への忠義」より「幕府への恩義」を選んだんですね。

やたまる

そうじゃな。北条政子まさこの「頼朝よりとも公の恩を忘れるな」という言葉が御家人の心を動かしたんじゃ。後鳥羽上皇ごとばじょうこうは、朝廷の権威がまだ武士の心を動かすと信じていた。しかしその時代は、すでに終わりかけていたんじゃよ。

後鳥羽上皇ごとばじょうこうに関係する人物

後鳥羽上皇ごとばじょうこうに関係する出来事

後鳥羽上皇ごとばじょうこうの考え方・価値観

後鳥羽上皇ごとばじょうこうが守ろうとしたのは「朝廷の権威」だった。天皇・上皇が政治を動かすことが「あるべき秩序」だと信じていた。その信念のために承久の乱じょうきゅうのらんを起こし、その信念のゆえに流罪になった。

彼が「間違っていた」と言いきることはできない。武士が権力を握った時代に、朝廷の権威を守ろうとすることは、少なくとも後鳥羽上皇ごとばじょうこうにとっては正しいことだったのだろう。ただ、時代の流れはすでに武士のものへと変わっていた。

現代への学び|後鳥羽上皇ごとばじょうこうの生き方から

後鳥羽上皇ごとばじょうこうが私たちに問いかけるのは、「失った力を取り戻そうとすること」の意味だ。かつて持っていたものが奪われ、それを取り戻そうとする——それは自然な衝動だ。しかしその戦いが「時代の流れ」と対立するとき、どんな覚悟が必要か。

後鳥羽上皇ごとばじょうこうは敗れた。しかし彼の戦いは「朝廷の権威を守りたかった一人の人間」の物語として、今も私たちに問いを投げかける。

自由帳につながる問い
失った力を取り戻そうとすることは、悪いことなのか。時代の流れに抗うことに意味はあるのか——あなたはどう考える?

まとめ|後鳥羽上皇ごとばじょうこうは「朝廷の誇りをかけて戦った上皇」

後鳥羽上皇ごとばじょうこうは、失われていく朝廷の力を取り戻そうと承久の乱じょうきゅうのらんを起こし、敗れて隠岐おきに流された人物だ。単なる失敗者ではなく、信念のために時代と戦った人間として描かれるべきだ。承久の乱じょうきゅうのらん後、朝廷の政治的権威は大きく低下し、武士の時代が本格的に定まっていった。

参考資料・参考図書

  • 五味文彦『鎌倉と京——武家政権と庶民世界』講談社学術文庫
  • 細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社現代新書
  • 隠岐おきの島町観光協会(https://www.okinoshima-kankou.com/)

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