泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)は、1213年に起きた北条義時打倒を狙った陰謀事件です。
この事件は短期間で鎮圧されましたが、
巻き込まれた和田義盛の怒りに火をつけ、
同年に起きた和田合戦へとつながっていきます。
この記事では、
「なぜ泉親衡は北条義時を打倒しようとしたのか」を中心に、
事件の背景・経緯・影響をわかりやすく解説します。
泉親衡の乱ってどんな出来事?
1213年(建暦3年)、泉親衡(いずみちかひら)という人物が、
鎌倉幕府の実権を握っていた北条義時を討つ計画を立てました。
彼が担ごうとしたのは、源頼家の遺児(よりいえのいじ)——つまり、かつての2代将軍・源頼家の子どもでした。
頼家の息子を将軍に立てることで、北条氏の支配を終わらせようとしたのです。
ひこまるちょっと待って、1213年って、鎌倉幕府ができてからまだ20年くらいしか経ってないよね?それなのにもう内部で陰謀が起きてたの?



そうなんだ。幕府が安定するまでには、北条氏が何度も陰謀や反乱を乗り越えなければならなかった。泉親衡の乱はその一つだよ。
事件の基本データ
- 起きた時期:1213年(建暦3年)2月
- 主な人物:泉親衡・北条義時・和田義盛
- 事件の性格:北条義時打倒を狙った陰謀
- 結果:陰謀が露見し、関係者98人が検挙。泉親衡は逃亡
- 影響:和田合戦(同年5月)の直接原因となった
なぜ起きたのか?|北条氏支配への反発
この事件を理解するには、1213年当時の幕府の状況を知る必要があります。
鎌倉幕府は、源頼朝の死後(1199年)から権力争いが激化していました。
1203年の比企能員の変で比企氏が滅び、
2代将軍・源頼家は廃位されて翌年に暗殺。
1205年には牧氏事件で北条時政が失脚。
1213年の段階では、北条義時が執権として幕府の実権を一手に握っていました。
しかし、すべての御家人がこの状況に納得していたわけではありません。
源氏将軍の時代を懐かしみ、北条氏の台頭に不満を持つ人物も少なくなかったのです。
泉親衡は、そうした不満を抱える御家人たちをまとめ、北条義時打倒を計画しました。



つまり、北条氏への反発は根強く残っていたんだね。泉親衡一人の問題じゃなくて、当時の幕府の不安定さを象徴する事件だったといえる。
登場人物
泉親衡(いずみちかひら)
源頼家の遺志をつぐ勢力に共鳴し、北条義時打倒の陰謀を主導した人物。
事件発覚後に逃亡し、その後の消息は不明。
北条義時(ほうじょうよしとき)
鎌倉幕府の執権。陰謀の標的となった人物。
事件を素早く察知して鎮圧し、幕府の実権を強化した。
和田義盛(わだよしもり)
侍所別当(幕府の武力組織トップ)。
泉親衡の仲間として、配下の御家人98人が検挙されてしまう。
釈放を求めて幕府と交渉したが、うまくいかず、これが和田合戦の一因となった。
経緯|陰謀の発覚から和田合戦へ
① 陰謀の計画(1213年2月)
泉親衡が源頼家の遺児を担いで北条義時打倒を計画。
多くの御家人に参加を呼びかけます。
② 陰謀が露見・関係者を検挙
計画が情報として幕府側に漏れ、関係者98人が一斉に捕縛されます。
その中には、和田義盛の甥・和田胤長(わだたねなが)らの名前もありました。
③ 泉親衡の逃亡
首謀者である泉親衡は捕まらず、そのまま逃亡。
事件の全貌は曖昧なまま終わります。
④ 和田義盛の請願と北条氏の対応
和田義盛は配下の釈放を幕府に求めますが、
北条義時はこれを利用するかのように、一部の人物を赦免せず、あえて義盛を追い詰めます。
⑤ 和田合戦へ(1213年5月)
追い詰められた和田義盛はついに挙兵。
これが和田合戦(1213年5月)へとつながります。



北条義時が「わざと」義盛を追い詰めたってこと?それ、ちょっとこわいね……



史料上ははっきりしないけど、そう見える動きをしているのは確か。政治の世界では「チャンスを逃さない」ことが生き延びる条件だったんだ。
この事件が歴史に残した意味
泉親衡の乱それ自体は、陰謀が未然に発覚したため大きな戦乱にはなりませんでした。
しかしこの事件は、
北条義時が和田合戦を起こすための「口実」を作ったという点で歴史的な意味を持ちます。
和田義盛を滅ぼした結果、北条氏は侍所別当と政所別当の両方を兼任することになりました。
これにより、幕府の軍事・行政の双方を北条氏が掌握し、執権政治が盤石なものとなったのです。
現代への学び
泉親衡の乱から学べることの一つは、「不満は必ずどこかに向かう」という組織の原則です。
権力を握った北条氏に対して、表では従いながらも内心では反発を持っていた人たちが確実に存在していました。
その不満が集まると、陰謀や反乱という形で噴き出します。
また、北条義時のふるまいは「危機をチャンスに変える」政治的嗅覚の鋭さを示しています。
陰謀を鎮圧しただけでなく、それを使って和田氏を除き権力を拡大した。
現代のリーダーシップ論でも語られる「問題を機会に変える力」の歴史的な実例です。
まとめ|泉親衡の乱は「和田合戦の火種」だった
泉親衡の乱は、北条義時打倒を目指した陰謀が事前に露見した事件です。
首謀者の泉親衡は逃亡し、事件自体は静かに終わりました。
しかし、連座した和田義盛の怒りは収まらず、同年5月に和田合戦が勃発。
この一連の流れの結果、北条氏は幕府の支配をいっそう強固なものにしました。
鎌倉時代の安定期に起きた権力争いの流れは→ 鎌倉時代の安定期
出来事の流れを全体で確認したい方は→ 鎌倉時代の出来事一覧
参考資料
- 吾妻鏡(建暦3年2月条)
- 日本大百科全書(ニッポニカ)「和田合戦」の項


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