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観阿弥とはどんな人物か|大和猿楽を能へと磨き上げ、子・世阿弥に芸を託した創始者

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能というと、まず世阿弥の名が浮かぶ人は多いかもしれません。しかし、その世阿弥に芸の土台を授けたのが、父である観阿弥です。

観阿弥は、伊賀国の猿楽一座に生まれ、大和国に進出して一座を率い、足利義満に見いだされたことで、猿楽というそれまでの大衆芸能を、能という新しい芸術へと磨き上げました。晩年まで地方の舞台に立ち続けながら、その芸を子・世阿弥へ受け継がせています。この記事では、観阿弥がどのように能を生み出し、何を次の世代へ託したのかをたどります。

ひこまる

観阿弥って、世阿弥のお父さんなんですね。

やたまる

そうじゃ。猿楽を能へと押し上げた土台を作った人物じゃぞ。

目次

結論ボックス

観阿弥の生涯は、「土台を作る人」の大切さを示しています。世阿弥が能を理論として大成できたのは、観阿弥がすでに猿楽を能へと押し上げ、足利義満という後ろ盾を得ていたからです。観阿弥自身は華やかな理論書を残したわけではありませんが、一座を育て、機会をつかみ、芸を子へ継承するという土台を作り上げました。後から評価される人の前には、必ず土台を作った人がいる。観阿弥の歩みは、そのことをよく表しています。

基本プロフィール

項目内容
生年1333年(正慶2年)伝
没年1384年(至徳元年)享年52(伝)
出身伊賀国(現在の三重県西部)の猿楽一座に生まれる
役職・地位結崎座(後の観世座)を率いた猿楽師。足利義満の保護を受けた
主な関わった出来事大和猿楽四座への進出、新熊野神社での演能(1374年)、能の創出

どんな人物か

観阿弥は、伊賀国の猿楽一座に生まれ、大和国に進出して結崎座を率い、大和猿楽四座の一つに育てた人物です。京都でも評価を得て足利義満に見いだされ、猿楽に歌舞・風流の要素を取り入れて能という新しい芸能を生み出しました。将軍家の保護を受けてからも、晩年まで地方の舞台に立ち続け、子・世阿弥に芸を継承しています。

生きた時代背景

観阿弥が生きた南北朝時代から室町時代初期にかけて、猿楽や田楽といった芸能は、寺社の祭礼や法会の場で演じられるものでした。専門家の集団は「座」を結成し、武家や寺社の保護を求めて競い合っていました。大和には、興福寺・春日大社を本所とする「大和猿楽四座」(結崎座・外山座・坂戸座・円満井座)があり、観阿弥はそのうちの結崎座を率いていました。3代将軍・足利義満は若くして文化・芸能への関心が強く、これが観阿弥にとって大きな機会となります。

ひこまる

将軍様に見つけてもらえたから、有名になれたんですか?

やたまる

それだけではないぞ。義満様の前に出るまでに、すでに大和や京で名を上げておったのじゃ。実力があったからこそ、機会をつかめたんじゃのう。

関係人物・勢力の整理表

人物・勢力観阿弥との関係
世阿弥観阿弥の子。芸を受け継ぎ、後に能を理論として大成させた
足利義満観阿弥・世阿弥親子を見いだし、手厚く保護した室町幕府3代将軍
結崎座(観世座)観阿弥が率いた大和猿楽の一座。後に観世流として現代まで続く
大和猿楽四座結崎座が属した、興福寺・春日大社を本所とする4つの猿楽座の総称

何をした人物か

観阿弥は伊賀の猿楽一座の出身で、大和国に進出して結崎座を率い、大和猿楽四座の一つに育てました。さらに京都・醍醐寺などでの上演を通じて名声を広げ、1374年(応安7年)には新熊野神社で、当時17歳だった足利義満の前で子・世阿弥とともに猿楽を演じ、深い感銘を与えます。これを機に観阿弥の一座は室町幕府の保護を受けるようになりました。

観阿弥は、それまで物まねや滑稽な演技が中心だった猿楽に、歌舞・風流の要素を取り入れることで、新しい芸能ジャンルである能を生み出しました。代表作には、平安時代の歌人・小野小町を題材とした『卒塔婆小町』があります。

なぜ観阿弥はこの立場に置かれたのか

観阿弥が将軍家の保護を受けられた背景には、本人の芸の実力に加えて、当時の室町幕府が文化・芸能への関心を強めていたという時代の流れがあります。足利義満は若くして猿楽に感銘を受け、観阿弥・世阿弥親子を後ろ盾としたことで、武力だけでなく文化の面でも自らの権威を示すことができました。

観阿弥の側から見れば、武家社会という大きな後ろ盾を得たことで、自らの一座を地方の芸能から将軍家公認の芸術へと押し上げることができたといえます。

ひこまる

将軍様に気に入られたら、それで安心なんですか?

やたまる

そうとも言えんのう。じゃが観阿弥は、将軍家の後ろ盾を得てからも、もとの大衆の舞台を忘れんかった。それが次の世代にもつながったんじゃ。

関わった出来事

大和猿楽四座への進出

伊賀から大和国に進出し、結崎座を率いて大和の代表的な猿楽座の一つに育てました。

新熊野神社での演能(1374年)

足利義満の前で子・世阿弥とともに猿楽を演じ、室町幕府の保護を受けるきっかけとなりました。

能の創出

物まね中心だった猿楽に歌舞・風流の要素を取り入れ、新しい芸能ジャンル「能」を生み出しました。

簡易図解:観阿弥をめぐる芸の継承の流れ

伊賀国の猿楽一座(観阿弥の出身)
└ 大和国へ進出、結崎座を率いる
新熊野神社での演能(1374年)
└ 足利義満に見いだされ、保護を受ける
能の創出
└ 子・世阿弥へ継承、観世流として現代へ

室町時代への影響

観阿弥が生み出した能は、足利義満をはじめとする室町幕府の保護のもとで、武家文化を代表する芸能となりました。観阿弥が率いた一座の流れは観世流として現代まで続いており、能は2008年にユネスコ無形文化遺産にも登録されています。一地方の猿楽役者が将軍家の後ろ盾を得て、芸能が芸術として確立されていく過程を、観阿弥の生涯はよく示しています。

人物像

観阿弥は、将軍家という最高の後ろ盾を得てからも、晩年まで田舎や山里に出向いて演じ続けたと伝えられています。大衆の芸であった猿楽を出自に持つことを忘れず、武家社会からの評価と大衆の支持の両方を大切にした役者だったと考えられます。

現代への学び

観阿弥の生涯は、新しい評価を得たときに、それまでの基盤を切り捨てないことの大切さを教えてくれます。観阿弥は将軍家の保護という大きな機会を得てからも、もとの大衆の舞台を離れませんでした。さらに自分の芸を子・世阿弥へ受け継がせたことで、一代限りで終わらない文化を作り出しています。積み重ねたものを次の世代に渡していく姿勢は、現代の仕事や学びにも通じる考え方です。

まとめ

観阿弥は、伊賀の猿楽一座に生まれ、大和国で結崎座を率いて足利義満に見いだされた人物です。猿楽に歌舞・風流の要素を取り入れて能という芸能を生み出し、晩年まで大衆の舞台に立ち続けながら、その芸を子・世阿弥へ託しました。観阿弥が築いた土台があったからこそ、世阿弥は能をさらに理論的に高めることができたといえます。

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参考資料・参考図書

  • 「観阿弥」「観世流」 – Wikipedia
  • 「観阿弥・世阿弥」 – 刀剣ワールド/ホームメイト日本史辞典
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