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鎌倉幕府では、将軍と御家人を結ぶ「御恩と奉公」が、幕府と武士の関係を説明する代表的な仕組みでした(ただし鎌倉武士にも、得宗家に直接仕える御内人との関係や、一族内の結びつき、荘園領主との関係など、御恩と奉公だけでは説明しきれない側面がありました)。では、その鎌倉幕府が滅び、南北朝の内乱を経た室町時代、武士は誰に従っていたのでしょうか。室町幕府では、御恩と奉公だけでは幕府と武士の関係全体を説明しきれず、将軍直属の奉公衆、守護を介する被官関係、国人間の契約などが、政治・軍事関係のなかでより目立つようになります。この記事では、将軍・守護・国人・地侍という言葉の関係を、史料と研究にもとづいて整理します。
目次
この記事の結論
室町時代には、すべての武士が一つの主従関係に組み込まれていたのではありません。将軍に直属する「奉公衆」、守護を中心とする被官関係、国人同士が結ぶ契約など、性格の異なる複数の結合が、地域と時期によって並存していました。
ここで注意しておきたいのは、「複数の関係が並存した」ということと、「一人の武士が複数の主君を同時に持っていた」ということは、別の主張だという点です。この記事では、確認できる史料・研究の範囲を超えて後者を断定することは避けます。
- 鎌倉時代の御恩と奉公から、室町時代に何が変わったのか
- 将軍・守護・守護代・奉公衆はどのような関係だったのか
- 国人・地侍は、縦(主従)と横(一揆)にどう結びついたのか
- 家と所領の継承は、どのように変化したと考えられているのか
- 家訓に書かれた理想と、実際の政治行動はどう違うのか
- 室町時代の変化は、戦国時代へどうつながっていくのか
鎌倉時代から何が変わったのか
鎌倉時代の武士社会は、将軍(鎌倉殿)が御家人に所領の支配を認め(御恩)、御家人が軍役・番役で応える(奉公)という関係を、幕府と武士を結ぶ代表的な仕組みとしていました。ただし、鎌倉武士の結びつきがこの関係だけで尽きるわけではなく、得宗家に直接仕える御内人との関係、血縁にもとづく一族内の結合、荘園領主との関係なども併存していました。詳しくは当サイトの「御恩と奉公とは?『武士道』以前の鎌倉武士が生きた規範」で解説しています。
鎌倉時代は「御恩と奉公」が将軍と武士を結ぶ代表的な仕組みだったんだよね。室町時代も同じような感じ?
それが、御恩と奉公だけでは説明できなくなっていくのじゃ。鎌倉幕府が滅び、南北朝の内乱を経るうちに、武士と権力を結ぶ糸は何本にも枝分かれしていった。将軍だけを見ていては、室町武士の実像はつかめんぞ。
鎌倉幕府の滅亡(1333年)と、その後の建武の新政、南北朝の内乱という一連の政治的動揺のなかで、恩賞を与える主体は将軍一人ではなくなりました。北朝・南朝それぞれの陣営、さらには地域の有力者が独自に所領を安堵し、軍事動員を行う場面が増えたためです。この結果、室町時代の武士は、鎌倉時代よりも複雑な選択肢のなかで、誰と結びつくかを判断する必要に迫られるようになりました。
なぜ主従関係が複雑になったのか
室町幕府は、鎌倉幕府と同じように将軍を頂点とする武家政権でしたが、その支配の実態は大きく異なっていました。室町幕府は守護大名による連合政権としての性格が強く、将軍が全国の武士一人ひとりを直接掌握する体制ではなく、多くの場合、守護を介して地方を統治する仕組みをとっていたのです。
この構造が生まれた直接のきっかけは、南北朝の内乱にあります。全国規模の戦乱が長期化するなかで、幕府は各国の軍事動員・恩賞給付を守護に大幅に委ねるようになり、守護は国内の武士を組織する権限を拡大していきました。応仁の乱をはじめとする室町幕府の政治過程そのものについては、当サイトの「室町時代から戦国時代へ――なぜ日本は争いの時代に変わったのか」で詳しく解説していますので、あわせてご覧ください。
ここで注意したいのは、この変化が「将軍の権威が一方的に失われた」という単純な下降線ではないという点です。守護は将軍から任命される存在であり、将軍の権威を利用しながら領国支配を強めていました。武士社会の秩序は、将軍の権威が急速に失われたというより、将軍・守護・国人という複数の主体の間で、力関係が絶えず組み替えられていく状態にあったと理解したほうが実情に近いと考えられます。
将軍・守護・守護代・奉公衆はどう結ばれたのか
室町時代の武士と幕府の結びつきには、大きく分けて二つの系列がありました。
- 将軍直属の系列:将軍が直接組織した「奉公衆」。守護の統率下になく、15世紀後半(将軍足利義政〜義稙の頃)の番帳では総数350余人が確認され、5番に編成されていました。平時は将軍御所の警備や外出時の供奉、直轄領の代官などを務め、有事には将軍直属の軍事力として出陣しました。将軍は奉公衆の所領について、守護の使者の立ち入りを認めない「守護使不入」の特権を承認しており、自立化しようとする守護大名を牽制する役割を果たしていたと説明されています。
- 守護を介する系列:将軍-守護-守護代-被官という結びつき。守護は経済力を背景に、国内の有力な武士(国人)を家臣(被官)として組み込んでいく「被官化」を進めました。その手段の一つが、戦の敗北や罪科によって没収された土地(闕所地)を恩賞として与える権限(闕所地給付権)です。守護が在京することが多かったため、現地の統治は「守護代」が代行することも多く、守護代自身が独自の勢力基盤を築いていく例も見られました。
研究者による整理としては、木下聡氏の研究(『室町幕府の外様衆と奉公衆』同成社、2018年)が、南北朝内乱のなかで各地の有力領主が将軍に付き従って在京するようになった経緯を明らかにしています。それによれば、外様衆・奉公衆は有事には将軍の直接的な軍事力として機能し、平時には将軍御所の警備、外出時の供奉・警衛、直轄領の代官なども務めていました。また、守護による国人の被官化の進み方には、地域ごとに大きな差がありました。たとえば若狭国では、守護武田氏の主要な家臣(粟屋・逸見・内藤・熊谷・山県の5氏)がほぼすべて本国安芸からの移住者で占められており、大飯郡の大草氏・本郷氏、遠敷郡の沼田氏という数少ない若狭出身の有力家は、守護武田氏の被官ではなく将軍直属の奉公衆でした(河村昭一「若狭武田氏の興亡一三〇年」『福井県文書館研究紀要』20号、2023年)。同じ室町時代でも、守護が現地の国人を十分に被官化できず、将軍直属の奉公衆が国内に強い基盤を持ち続けた国もあったことが分かります。奉公衆自体も、鎌倉幕府の御所内番を継承した「当参奉公人」という制度の発展形として位置づけられており、諸国の地頭御家人が守護の被官化を強めるなかで、将軍に直属する軍事的・経済的基盤としての性格を強めていったと説明されています(福田豊彦「奉公衆」改訂新版世界大百科事典、平凡社)。
重要なのは、これら二つの系列が全国均一に存在していたわけではないという点です。守護による被官化がどこまで進んだかは、地域・守護家・時期によって差があり、なかには守護代や国人が独自の基盤を保ち、守護の統制が及びにくい地域もありました。つまり室町期の武士社会は、「守護権力が一方的に強まった時代」とも「守護支配が一方的に崩れた時代」とも言い切れず、統合の動きと、その内部での自立・対抗が並行して進んでいたと理解するのが妥当です。
図解:室町武士を取り巻く複数の結合
系列① 将軍 ― 奉公衆
将軍が直接組織した親衛隊的な武士団(守護の統率下にない)
系列② 将軍 ― 守護 ― 守護代 ― 被官
守護が国人を被官化することで形成された縦の系列
系列③ 国人 ― 契約 ― 国人
国人同士が、一味同心や地域的な課題への対応のために結んだ契約関係(国人一揆)。守護との被官関係とは異なる結合原理を持つが、上部権力と無関係だったとは限らない
国人・地侍の実際の位置づけは、地域・時期により異なる
※この図は室町期の関係を理解するための概念図であり、全国共通の固定的な身分制度を示すものではありません。一人の武士が複数の系列に同時に属していたことを積極的に示す図ではなく、性格の異なる複数の結合が並存していたことを表すものです。
国人・地侍は縦と横にどう結びついたのか
国人は、地頭など鎌倉時代以来の在地領主層から成長した、地域に根を張る武士層です。地域でさらに新興の武士層(地侍)が、村落の指導者として国人などと結びつき武士としての地位を得ていく動きも、室町中期以降に見られました。国人については、当サイトの「国人とは?戦国大名を支え、時に対立した地方領主をわかりやすく解説」もあわせてご覧ください。
守護との被官関係(縦のつながり)
国人は、守護から見れば被官化の対象でした。守護の力が強い地域では、国人は守護の家臣として組み込まれ、軍事動員や所領安堵という形で縦の主従関係に組み込まれていきます。
国人一揆という契約(横のつながり)
一方、国人同士が紛争解決や地域の課題への対応のために契約を結び、地域的な連合(国人一揆)を形成する動きも見られました。国人一揆は、守護の統制が及ばない場面だけで生まれたわけではありません。呉座勇一氏の研究によれば、国人一揆を幕府や守護といった上部権力から切り離された自立的な組織として捉えるのではなく、上部権力との政治的交渉の主体として位置づけることが重要だと指摘されています。
史料からわかる範囲では、南北朝〜室町期の東北地方に伝わる「白河結城文書」に含まれる一揆契状が、この横のつながりを示す代表的な史料として研究の対象になっています。呉座勇一氏の博士論文『日本中世の地域社会における集団統合原理の研究―領主の一揆を中心として―』(2011年、東京大学博士論文データベース掲載要旨)によれば、白河結城氏と、その庶子家である小峰氏は、同じ一揆に共に参加したことはなく、それぞれ別個に、周辺の国人と一対一の一揆契約を結んでいました。
ただし呉座氏は、これは両氏が互いに無関係に活動していたことを意味するのではないと分析しています。惣領家である結城氏の築いたネットワークと、庶子家である小峰氏の築いたネットワークが連結することによって、白河結城一族は南奥(陸奥国南部)の国人の中心的な位置を占めることに成功した、というのが呉座氏の結論です。惣領家と庶子家という近い血縁関係にある武士同士でも、必ずしも同じ一揆に属していたわけではなく、それぞれが独自の契約網を築きながら、全体としては地域における一族の地位を支え合っていたことになります。ただし、この一例をもって「国人一揆は参加者全員が常に平等だった」「常に多数決で運営されていた」と一般化することはできません。一揆の運営原則や規模、上部権力との関わり方は、契約ごとに異なっていたと考えるのが妥当です。
また、武士同士の関係だけでなく、当時の地域社会には寺社・公家などが持つ荘園領主権も併存していました。室町期になっても、寺社・本所(荘園領主)・公家領は一定の権益を保ち続けており、武士による所領の押領・押妨としばしば緊張関係が生じたことは、当時の社会の一般的な理解として知られています。ただし、今回の調査では具体的な個別事例・専門研究の特定までは至っておらず、記事内ではこの限定的な背景説明にとどめます。
家と所領の継承はどう変わったのか
教科書的には、鎌倉時代の武士は所領を一族で分け合う「分割相続」を基本とし、鎌倉後期から南北朝・室町期にかけて、嫡子一人が家督と所領を継ぐ「単独相続」へ移行していった、と説明されることがよくあります。歴史学者・羽下徳彦氏および五味文彦氏による「惣領制」の解説(それぞれ『日本大百科全書』小学館、『改訂新版 世界大百科事典』平凡社に収録)によれば、鎌倉中期以降に所領分割が限界を迎えると分割相続が行われなくなり、南北朝期から単独相続の傾向が現れ、室町時代に単独相続が確立して家督の地位が絶対化すると、分割相続を基礎としていた惣領制は解体していったと整理されています。
研究者による整理としては、この「分割相続から単独相続へ」という説明を、全国で一律に進行した変化として捉えることには留保が必要です。同じ羽下徳彦氏の解説(『日本大百科全書』小学館「惣領制」項目)は、近年の研究では武士階級の結合原理が父系の血縁関係だけで説明しきれず、母方の血縁関係、婚姻によって結ばれる姻族関係、烏帽子親子・養子・猶子といった関係など、複数の要素が複雑に関わっていたことが強調されるようになり、「惣領制」という一つの概念で室町期の家・所領のあり方を一律に説明すること自体に、研究上の疑問が呈されるようになっていると述べています。この記事では、「鎌倉後期から単独相続化が進んだ」という大きな傾向は紹介しつつ、それが全国で同時に、一様に起きた変化だったとは断定しません。
単独相続化が進んだ場合、家督を継がない庶子は、惣領の家臣同然の立場に置かれることも多くなりました。五味文彦氏の整理(『改訂新版 世界大百科事典』平凡社「惣領制」項目)によれば、惣領制の展開は分立した庶子家の中にもさらに惣領・庶子関係を生み出し、二重・三重の結合を発生させる一方、鎌倉後期以降は所領の拡大が望めなくなったことで庶子への所領配分が縮小し、惣領制的な結合から離脱しようとする庶子の動きが強まっていったとされています。血縁にもとづく一族の結びつきが、主従関係に近い性格へと変質していく面があったことは、室町期の主従関係が複雑化した一因として押さえておく必要があります。
家訓と実務文書から見える理想と現実
室町期の武士が何を理想としていたかを知る手がかりとして、家訓・教訓書が残されています。ただし、家訓に書かれた理想がそのまま当時の武士の行動を表しているわけではない点に注意が必要です。
斯波義将に仮託されたとされる室町初期の教訓書『竹馬抄』は、奥書に永徳3年(1383年)とあり、序と10か条から成ります。「おほやけ姿」(外形からみた人のあるべき姿)や物事の本質を見抜く「眼」を備えるべきことを説き、仏神を信じ心を正直に持ち、道理に従い、文武兼備の人物となることを求めています。ただし、義将本人の著作かどうかは異説があり、子孫のために仮託された教訓書とみる説も有力です。そのため、この記事では『竹馬抄』を義将本人の思想や行動を直接証明する史料としては扱わず、室町期に伝えられた武士の理想像を考えるための補助的な史料として紹介します。
室町幕府の実務中枢を担った政所執事・伊勢貞親が、嫡男・貞宗に宛てたとされる『伊勢貞親教訓』も、室町期の武士の理想を知る史料の一つです。全38条から成り、神仏への崇敬、上下・主従の礼の厳守、弓馬という武芸の鍛錬、学問の必要性などを説いています。ここで確認しておきたいのは、今回国立公文書館デジタルアーカイブで確認できた『伊勢貞親教訓』は、明治期に編まれた「日本教育文庫」という叢書に収められた本であり、貞親自身が書いた室町期の自筆原本ではないという点です。教訓が伊勢貞親に帰されていること、嫡男に向けた内容とされていることは確認できますが、今回確認したのはあくまで後世の写本・刊本にもとづく情報であることをお断りしておきます。
家訓が「あるべき理想」を語る文書だとすれば、当時の主従関係を実務的に支えていたのは、安堵状、軍忠状、感状といった実務文書でした。ただし、この3種類の文書は、発給する側と提出・受給する側の向きがそれぞれ異なる点に注意が必要です。
安堵状は、幕府や主君など権力を持つ側が、家臣の所領の支配・相続などを確認・承認する文書です(改訂新版世界大百科事典「安堵状」執筆:高橋正彦、平凡社/日本大百科全書「安堵状」執筆:加藤哲、小学館)。室町幕府では当初、足利直義の下文によって安堵がなされ、3代将軍義満以後は将軍から発給される御判御教書の形式が一般化しました。
軍忠状は逆に、参戦した武士の側が、自らの合戦での働きを大将や軍奉行に申告する文書です(改訂新版世界大百科事典「軍忠状」執筆:高橋正彦、平凡社/日本大百科全書「軍忠状」執筆:服部英雄、小学館)。提出された軍忠状には、軍事統率者が「一見了」「承了」などの証判(確認したことを示す署名)を記して差出人に返却し、差出人はこの証判を得た軍忠状をもとに、後日の恩賞や所領安堵を請求しました。
感状は、軍忠状とは逆に、主君・指揮官の側が、部下の戦功を賞するために発給する文書です(改訂新版世界大百科事典「感状」執筆:高橋正彦、平凡社)。差出者が将軍級であれば御教書や奉書、守護大名であれば直状(判物)、戦国大名であれば印判状というように、発給者の身分に応じて文書の形式が異なりました。
このように、安堵状は権力者から家臣へ、軍忠状は家臣から指揮官へ、感状は指揮官から家臣へと、それぞれ発給の向きが異なる文書です。三者を一括して「主君が家臣の奉公を確認する手続き文書」とまとめてしまうと、この向きの違いが見えなくなってしまいます。
| 史料・文書 | 成立/伝来 | 誰に向けたものか | 確認できる理想・役割 | この史料だけでは確認できないこと |
| 竹馬抄 | 奥書は永徳3年(1383年)。斯波義将に仮託されたとする説が有力 | 子孫(一族の後継者) | 「おほやけ姿」「眼」を備えた文武兼備の人物像 | 義将本人が実際にこの理想どおり行動したこと |
| 伊勢貞親教訓 | 長禄年間(1457〜60年)ごろの執筆説。現存するのは「日本教育文庫」収録の明治期刊本 | 嫡男・伊勢貞宗 | 神仏への崇敬、主従の礼、弓馬と学問の重要性 | 室町期の自筆原本の内容そのもの(後世の写本・刊本を経由した情報である点に留意) |
| 安堵状(実務文書) | 文書ごとに発給者・年代が異なる(室町期は将軍の御判御教書が一般的) | 所領を安堵された武士(受給者) | 所領の支配・相続の承認 | 個々の安堵状を一般化した「当時の武士全体の所領関係」 |
| 軍忠状(実務文書) | 文書ごとに発給者・年代が異なる(南北朝期以降に多く現存) | 大将・軍奉行(提出先) | 武士が自ら申告した軍功の内容 | 申告内容が誇張なく事実そのままである保証 |
| 感状(実務文書) | 文書ごとに発給者・年代が異なる(南北朝期以降に多く現存) | 戦功のあった武士(受給者) | 主君・指揮官が認めた軍功への評価 | 個々の感状を一般化した「当時の武士全体の評価基準」 |
家訓が語る理想と、実務文書が記録する個別の事実は、性格の異なる史料であることに注意が必要です。
ジャパレキとして考えるなら、家訓に「主従の礼を厳守すべき」と書かれていること自体は、当時それが完全に徹底されていたことの証明にはなりません。むしろ、わざわざ書き残す必要があったという点に、理想と現実の間にあった距離を読み取ることもできるでしょう。ただし、これはあくまで一つの見方であり、史料から断定できる結論ではないことを申し添えます。
室町時代の変化は戦国時代へどうつながったのか
ここまで見てきたように、室町時代の武士社会は、将軍直属の奉公衆、守護を中心とする被官関係、国人同士の契約という、性格の異なる複数の結合が並存する構造でした。惣領による単独相続化が進む一方で、その進み方や実態は地域によって一様ではありませんでした。
こうした重層的でありながら流動的な関係は、応仁の乱以降さらに大きく揺らいでいきます。守護の統制力が弱まった地域では、守護代や国人が実力で独自の支配権を確立し、後に「戦国大名」と呼ばれる存在へと変わっていきました。身分の下の者が実力で上の者に取って代わる「下剋上」や、大名が独自に定めた「分国法」といった現象は、この記事で見てきた室町期の重層的な主従関係が、応仁の乱後にどう再編されていったかという、次の問いにつながっています。この続きは、次の記事(戦国編)で扱う予定です。
まとめ
室町時代の武士は、将軍との一つの結びつきだけで生きていたわけではありません。鎌倉時代に幕府と武士を結ぶ代表的な仕組みだった御恩と奉公だけでは捉えきれない形で、将軍直属の奉公衆、守護を中心とする被官関係、国人同士の契約という、性格の異なる複数の結合が、地域と時期によって並存していました。これは「一人の武士が複数の主君を同時に持っていた」ということではなく、武士社会全体として複数の結合のあり方が併存していた、という構造の変化として理解する必要があります。家と所領の継承のあり方も、単独相続化という大きな傾向はありつつ、全国一律に進んだと言い切れるものではありませんでした。家訓に描かれた理想と、安堵状・軍忠状に記録された個別の事実は、性格の異なる史料として区別して読む必要があります。こうした室町期の重層的な秩序が、応仁の乱を経てどう再編されていくのかは、次の記事(戦国編)で扱います。
参考資料・出典
- 呉座勇一「日本中世の地域社会における集団統合原理の研究-領主の一揆を中心として-」東京大学博士論文, 2011年(東京大学文学部・大学院人文社会系研究科 博士論文データベース掲載要旨). https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2011/992.html(確認日:2026-08-02)
- 木下聡『室町幕府の外様衆と奉公衆』同成社, 2018年(東京大学UTokyo BiblioPlaza著者解説を確認)
- 福田豊彦「奉公衆」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社/『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館(コトバンク収録)(確認日:2026-08-02)
- 河村昭一「若狭武田氏の興亡一三〇年」『福井県文書館研究紀要』20号, 2023年3月, pp.1-18(もとになる講演の詳細は河村昭一『若狭武田氏と家臣団』戎光祥出版, 2021年). 福井県文書館公開PDF(確認日:2026-08-02)
- 羽下徳彦「惣領制」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館(コトバンク収録)(確認日:2026-08-02)
- 五味文彦「惣領制」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社(コトバンク収録)(確認日:2026-08-02)
- 高橋正彦「安堵状」「軍忠状」「感状」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社(コトバンク収録)(確認日:2026-08-02)
- 加藤哲「安堵状」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館(コトバンク収録)(確認日:2026-08-02)
- 服部英雄「軍忠状」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館(コトバンク収録)(確認日:2026-08-02)
- 「伊勢貞親教訓」国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号ヨ081-0032-0013、内閣文庫、日本教育文庫収録の明治期刊本). https://www.digital.archives.go.jp/item/762764(確認日:2026-08-01)
- 「竹馬抄」早稲田大学古典籍総合データベース、国立国会図書館サーチ収録の関連研究(「『竹馬抄』にあらわれたる斯波義将の思想」)(確認日:2026-08-01)
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