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得宗専制とは?|北条本家が鎌倉幕府を一手に動かした政治体制の仕組みと崩壊

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得宗専制とくそうせんせい(とくそうせんせい)とは、
鎌倉幕府で北条氏の「本家の当主(得宗とくそう)」が、幕府のすべての実権を握った政治体制のことです。

表向きは執権(しっけん)が幕府を動かしているように見えますが、
実際には得宗とくそうという「北条家のトップ」が、執権すら超えた力を持つ存在になっていきました。

この記事では、
得宗とくそうとは何か」「なぜ得宗専制とくそうせんせいが生まれたのか」「どのように発展・崩壊したのか」を、
歴史初心者にもわかりやすく解説します。


目次

そもそも「得宗とくそう」って何?

得宗とくそう(とくそう)とは、北条氏の本家(惣領家そうりょうけ)の当主に与えられた特別な呼び名です。

もともとは北条氏の始祖・北条義時ほうじょうよしときの法号(出家後の名前)「徳宗」に由来するとされています。
以後、北条本家の当主を「得宗とくそう」と呼ぶようになりました。

ひこまる

お師匠、「執権」と「得宗とくそう」って、どう違うんですか?

やたまる

執権は幕府の職名(役職)で、将軍を補佐する役職じゃ。得宗とくそうは北条本家の当主という「家の地位」じゃな。北条氏が強くなるにつれ、得宗とくそうが執権を兼ねることが多くなった。そして最終的には、執権より得宗とくそうの地位のほうが実質的に重要になっていったんじゃ。


なぜ得宗専制とくそうせんせいが生まれたのか?

得宗専制とくそうせんせいは、一日にして成ったわけではありません。
北条氏が長い年月をかけてライバルを排除しながら、少しずつ権力を固めていった結果です。

1203年:比企能員の変ひきよしかずのへん
頼家よりいえの外戚・比企氏が滅ぼされます。
頼家よりいえの後ろ盾がなくなり、北条氏の権力が強まります。

1205年:牧氏まきし事件
北条時政ほうじょうときまさが失脚。
息子の北条義時ほうじょうよしときが実権を掌握します。

1213年:和田わだ合戦
侍所別当さむらいどころべっとう和田義盛わだよしもりが滅ぼされます。
北条義時ほうじょうよしとき侍所さむらいどころ政所まんどころの両方を兼任し、幕府の軍事・行政を一手に握ります。

1247年:宝治合戦ほうじかっせん
有力御家人・三浦氏が滅亡。
北条氏の権力をおびやかす最後の大勢力が消えます。

1285年:霜月騒動しもつきそうどう
得宗とくそう家と協力関係にあった安達氏が内管領うちかんれい平頼綱たいらのよりつなによって滅ぼされます。
以後、得宗とくそう家を支える「御内人みうちびと(みうちびと)」が幕府の実権を握る体制が完成します。

ひこまる

ライバルをひとつひとつ消していったんですね。長い年月をかけて……。

やたまる

うむ。長い時間をかけて、北条氏は着実に権力を固めていったんじゃ。最終的には将軍も、他の御家人も、すべて得宗とくそうの意のままになる体制ができあがったんじゃ。


得宗専制とくそうせんせいの仕組み

得宗専制とくそうせんせいが確立すると、幕府の重要な政策決定は寄合よりあい(よりあい)」と呼ばれる得宗とくそう家の私的な会議で決まるようになりました。

正式な評定(幕府の公式会議)は形式的なものとなり、
実際の政治は得宗とくそうとその側近である御内人みうちびと(みうちびと)が動かします。

御内人みうちびとのトップが内管領うちかんれい(うちかんれい)であり、
霜月騒動しもつきそうどう後には平頼綱たいらのよりつなが、平禅門の乱へいぜんもんのらん(1293年)後には長崎氏が内管領うちかんれいとして権力を持ちます。

得宗専制とくそうせんせいの構造まとめ

  • 将軍:形式上の権威。実権はほぼない
  • 執権:幕府の代表者。多くが得宗とくそうと同一人物
  • 得宗とくそう:北条本家当主。実質的な最高権力者
  • 内管領うちかんれい得宗とくそうの側近トップ。得宗とくそうが弱い時代は実権を代行
  • 御内人みうちびと得宗とくそう家の家臣団。幕府行政の実務を担う

得宗専制とくそうせんせいの限界と崩壊

得宗専制とくそうせんせいは、権力の集中を実現した一方で、大きな弱点も抱えていました。

その弱点とは、得宗とくそう個人の資質に権力が依存する」ことです。

北条時宗ほうじょうときむねのように元寇げんこうという国家的危機に対応できるリーダーがいれば機能しますが、
北条高時ほうじょうたかときのように政治に無関心な得宗とくそうが続くと、
体制全体が機能不全に陥ります。

加えて、永仁の徳政令えいにんのとくせいれい(1297年)に代表されるように、
元寇げんこう後の恩賞問題・御家人の経済的困窮は解決されないまま積み残されました。
御家人の幕府離れが進む中、後醍醐天皇ごだいごてんのうの討幕運動が起き、
1333年に鎌倉幕府は滅亡します。


現代への学び

得宗専制とくそうせんせいから学べることは、「権力の集中は効率的だが、脆さも生む」という組織の真理です。

一人のリーダーや一つの家に権力が集まれば、決断は速くなります。
しかし、そのリーダーが弱体化したとき、組織全体が一気に崩れるリスクを抱えることになります。

北条氏が100年をかけて作り上げた体制が、
わずか数代の「無力な得宗とくそう」によって崩壊していったことは、
組織のあり方を考えるうえで深く考えさせられます。


まとめ|得宗専制とくそうせんせいとは「北条本家による一元支配」だった

得宗専制とくそうせんせいとは、北条本家(得宗とくそう)が将軍・他の御家人・幕府機構すべてを支配した政治体制です。

比企氏・和田氏・三浦氏・安達氏を次々と排除しながら100年かけて完成したこの体制は、
元寇げんこう後の矛盾を解消できないまま、後醍醐天皇ごだいごてんのうの討幕運動によって終焉を迎えます。

鎌倉時代の動揺期の流れを確認したい方は→ 鎌倉時代の動揺期
出来事の全体像を確認したい方は→ 鎌倉時代の出来事一覧


参考資料

  • 日本大百科全書(ニッポニカ)「得宗専制とくそうせんせい」の項

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