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霜月騒動とは?安達泰盛と平頼綱の対立が示した鎌倉幕府の限界

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1285年(弘安こうあん8年)11月、鎌倉幕府の内部で大規模な政変が起きました。
霜月騒動しもつきそうどうです。

御家人の権利回復を目指した安達泰盛あだちやすもりと、北条得宗家とくそうけ内管領うちかんれい(家臣)として権力を握っていた平頼綱たいらのよりつなが衝突し、安達一族が滅亡した事件です。
この事件により、得宗専制とくそうせんせいが完成形に近づき、幕府の内側にあった「御家人合議の伝統」は事実上消えていきます。

この記事でわかること

  • 霜月騒動しもつきそうどうとは何か、なぜ起きたのか
  • 安達泰盛あだちやすもりの改革とは何だったのか
  • 平頼綱たいらのよりつなはなぜ安達氏を滅ぼせたのか
  • 得宗専制とくそうせんせいの完成と幕府衰退のつながり

目次

霜月騒動しもつきそうどうとは何だったのか

出来事名霜月騒動しもつきそうどう
1285年(弘安こうあん8年)11月
対立安達泰盛あだちやすもり vs 平頼綱たいらのよりつな内管領うちかんれい
結果安達氏滅亡・平頼綱たいらのよりつなが幕府内権力を掌握
意味得宗専制とくそうせんせいの完成。御家人合議の終焉。幕府衰退の加速
ひこまる

お師匠!霜月騒動しもつきそうどうって、北条氏の中での争いではなく、北条氏の家臣が暴れた事件なんですか?

やたまる

そこが面白いところじゃ、ひこまる。北条得宗家とくそうけの当主・北条貞時ほうじょうさだときは若く、実権を内管領うちかんれい平頼綱たいらのよりつなが握っておった。形の上では北条氏の支配でも、実態は頼綱よりつなが動かしておったんじゃよ。そしてその頼綱よりつなが、御家人の利益を守ろうとした安達泰盛あだちやすもりを討ったわけじゃ。


安達泰盛あだちやすもりとはどんな人物だったのか

安達泰盛あだちやすもりは、北条氏と深いつながりを持つ御家人の家系出身です。
8代執権・北条時宗ほうじょうときむねを補佐し、元寇げんこう蒙古襲来もうこしゅうらい)後の困難な時期に幕府を支えました。

元寇げんこう後、御家人たちは恩賞が少ないことへの不満を募らせていました。
泰盛やすもりはこの問題を解決しようとし、弘安徳政こうあんとくせいと呼ばれる一連の改革を進めます。
御家人が直接将軍に訴えられる窓口を広げ、より多くの御家人の意見が幕府政治に届くようにしようとしたのです。なお、弘安徳政こうあんとくせいの詳細は史料によって差がありますが、御家人の権利回復と幕府政治の立て直しを目指した改革であったことは確かです。


平頼綱たいらのよりつなとはどんな人物だったのか

平頼綱たいらのよりつなは、北条得宗家とくそうけの家政機関を取り仕切る内管領うちかんれいという立場にありました。
8代執権・北条時宗ほうじょうときむねの信任が厚く、元寇げんこうの際も重要な役割を担いました。

時宗の死後、9代執権・北条貞時ほうじょうさだときが若年で就任すると、頼綱よりつな得宗家とくそうけの家政を実質的に支配します。
安達泰盛あだちやすもりの改革は、頼綱よりつなにとって自分の権力基盤を脅かすものでした。


なぜこの対立が起きたのか

「御家人重視」 vs「得宗家とくそうけ優先」の衝突

安達泰盛あだちやすもりは、幕府の政治を幅広い御家人の合議に戻そうとしていました。
一方、平頼綱たいらのよりつなにとっては、御家人の発言権が強まることは、得宗家とくそうけの家政機関=自分の権力が弱まることを意味します。

両者の利害は根本から対立しており、どちらかが排除されるまで共存できない関係でした。

先手を打ったのは頼綱よりつな

1285年11月、平頼綱たいらのよりつな安達泰盛あだちやすもりを謀反人として訴え、北条貞時ほうじょうさだときの承認を得て安達一族を攻撃します。
安達泰盛あだちやすもりは戦いの末に討ち死にし、安達一族はほぼ滅亡しました。


事件の流れ

1281年 弘安の役こうあんのえき(第2次元寇げんこう)終結
1284年 北条時宗ほうじょうときむねが死去 → 北条貞時ほうじょうさだとき(13歳)が9代執権に
同年頃 安達泰盛あだちやすもりが「弘安徳政こうあんとくせい」を推進、御家人の権利回復を目指す
1285年11月 平頼綱たいらのよりつな安達泰盛あだちやすもりを謀反として訴え攻撃
同月 安達泰盛あだちやすもり、戦いの末に討ち死に。安達一族が滅亡
その後 頼綱よりつなが幕府内権力を掌握。御家人合議の機能が失われる
1293年 貞時さだとき頼綱よりつなを討つ(平禅門の乱へいぜんもんのらん)→ 貞時さだときが親政へ


霜月騒動しもつきそうどうが幕府に与えた影響

  • 得宗専制とくそうせんせいの完成安達泰盛あだちやすもりという「合議派」の筆頭が消え、幕府の方針を止める存在がいなくなった
  • 御家人の不満が蓄積元寇げんこう後の恩賞問題が解決されないまま残り、御家人の幕府離れが進む
  • 内管領うちかんれいの独走平頼綱たいらのよりつなは1293年まで幕府を実質支配し続ける
  • 幕府衰退の加速元寇げんこうの疲弊 + 御家人の不満 + 内部分裂という三重苦が深まる
ひこまる

改革しようとした安達泰盛あだちやすもりが消えたことで、幕府はますます行き詰まっていったんですね……。

やたまる

そうじゃ。変えようとする人が消えると、組織は現状維持のまま硬直していく。御家人の不満は永仁えいにん徳政令とくせいれいでも解消できず、最終的に鎌倉幕府の滅亡へとつながっていくんじゃよ。


関係した主な人物


現代への学び|改革派と権力維持派が衝突すると何が起きるのか

霜月騒動しもつきそうどうが教えてくれるのは、「変えようとする人」と「現状を守ろうとする人」が衝突したとき、どちらが消えるかで組織の未来が変わる、ということです。

安達泰盛あだちやすもりは御家人の不満を解消しようとしていました。しかし平頼綱たいらのよりつなにとって、それは自分の権力への脅威でした。
頼綱よりつなは改革を止めるために泰盛やすもりを排除しました。

その結果、幕府は「変われる力」を失い、御家人の不満は解消されないまま積み重なっていきます。
組織の中で「変えようとする人」が消えるとき、組織は見えないところで少しずつ崩れ始めます。


まとめ|霜月騒動しもつきそうどうは幕府衰退の決定的な転機

霜月騒動しもつきそうどうは、安達泰盛あだちやすもり平頼綱たいらのよりつなの対立によって、御家人合議の伝統が失われた事件です。
この後、幕府は得宗専制とくそうせんせいの完成形に近づきますが、同時に御家人の不満と内部崩壊への道も開いていきます。
霜月騒動しもつきそうどうから鎌倉幕府の滅亡までの歴史は、「変われない組織の末路」を静かに示しています。



参考資料・参考図書

  • 五味文彦・本郷和人 編『現代語訳 吾妻鏡あずまかがみ』吉川弘文館
  • 佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』岩波書店
  • 永原慶二『吾妻鏡あずまかがみの虚像と実像』吉川弘文館

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