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平禅門の乱とは?北条貞時が内管領・平頼綱を討った鎌倉動揺期の転換点

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平禅門の乱へいぜんもんのらん(へいぜんもんのらん)は、1293年に起きた北条貞時ほうじょうさだときによる内管領うちかんれい平頼綱たいらのよりつな禅門ぜんもん)の誅殺ちゅうさつ事件です。

元寇げんこう蒙古襲来もうこしゅうらい)後の混乱期に権力を握った平頼綱たいらのよりつなを、
9代執権・北条貞時ほうじょうさだときが討ち取ったこの事件は、
得宗家とくそうけ(北条本家)が自らの手で幕府を立て直そうとした転換点でもありました。

この記事では、
「なぜ貞時さだとき頼綱よりつなを討たなければならなかったのか」を軸に、
事件の背景・経緯・歴史的意味をわかりやすく解説します。


目次

平禅門の乱へいぜんもんのらんってどんな出来事?

1293年(永仁元年)4月、鎌倉幕府の9代執権・北条貞時ほうじょうさだときは、
内管領うちかんれい(うちかんれい)として実権を握っていた平頼綱たいらのよりつな(たいらのよりつな)を突如討ちました。

平頼綱たいらのよりつなは出家して「禅門ぜんもん(ぜんもん)」と名乗っていたため、
この事件は平禅門の乱へいぜんもんのらんと呼ばれています。

ひこまる

お師匠、「内管領うちかんれい」って何ですか?執権とは違うんですか?

やたまる

内管領うちかんれいは北条得宗家とくそうけ(本家)の家政を仕切る重役のことじゃ。名目上の主君(執権)の代わりに、実質的に政治を動かすことができた。つまり「幕府の裏の実力者」といってよい存在じゃな。

事件の基本データ

  • 起きた時期:1293年(永仁元年)4月
  • 主な人物:北条貞時ほうじょうさだとき平頼綱たいらのよりつな禅門ぜんもん
  • 事件の性格:執権による内管領うちかんれい誅殺ちゅうさつ
  • 結果:平頼綱たいらのよりつなとその一族が滅亡
  • 影響:得宗専制とくそうせんせいがいったん直接化するが、その後は貞時さだときの政治離れへ

なぜ起きたのか?|元寇げんこう後の混乱と平頼綱たいらのよりつなの台頭

この事件を理解するには、元寇げんこう蒙古襲来もうこしゅうらい)以後の幕府の状況を知る必要があります。

1274年・1281年の元寇げんこう文永の役ぶんえいのえき弘安の役こうあんのえき)では、日本は辛くも撃退に成功しました。
しかしその後、恩賞問題が深刻化します。
海外からの侵攻に対しては「奪った土地を給与する」という従来の恩賞システムが使えず、
多大な犠牲を払った御家人たちへの報酬が十分に出せなかったのです。

この混乱の中、1285年に起きた霜月騒動しもつきそうどうで、
平頼綱たいらのよりつなは幕府の有力者・安達泰盛あだちやすもり(あだちやすもり)を滅ぼし、内管領うちかんれいとして圧倒的な権力を手にしました。

当時の執権・北条貞時ほうじょうさだときはまだ若く、頼綱よりつなに政治を丸ごと委ねるような状態が続きます。
やがて貞時さだときは成長し、「自分こそが幕府を動かすべきだ」という意識を強めていきました。

ひこまる

家来が主君を超えて権力を持つなんて、おかしなことになっていたんですね。

やたまる

そうじゃ。しかも頼綱よりつな元寇げんこうでの功績や政治力を背景に、もはや貞時さだときさえも自由にならない存在になっておったんじゃ。貞時さだときにとって、頼綱よりつなは「守るべき部下」ではなく「邪魔な存在」になってしまったんじゃよ。


経緯|突然の討滅

霜月騒動しもつきそうどう(1285年)後の平頼綱たいらのよりつなの専横
安達泰盛あだちやすもりを滅ぼした平頼綱たいらのよりつなは、内管領うちかんれいとして幕府政治を事実上支配します。
この状態が約8年間続きました。

北条貞時ほうじょうさだときの決断(1293年4月)
9代執権に就いていた貞時さだときは、もはや黙認できないと判断。
突然、平頼綱たいらのよりつなとその一族を鎌倉で討ちました。

平頼綱たいらのよりつなの一族滅亡
頼綱よりつな本人だけでなく、息子の飯沼資宗いいぬますけむね(いいぬますけむね)ほか一族も誅殺ちゅうさつされます。

④ その後の貞時さだとき
事件後、貞時さだときは自ら政治の前面に立つかに見えました。
しかし実際には次第に政治から離れ、飲酒や放逸な生活へと傾いていったとされます。


この事件が歴史に残した意味

平禅門の乱へいぜんもんのらんは、表面上は「執権が秩序を取り戻した事件」に見えます。
しかし実態は、得宗家とくそうけ(北条本家)の支配体制が内側から崩れ始めるきっかけでもありました。

平頼綱たいらのよりつなを倒した後も、北条貞時ほうじょうさだときは政治への熱意を保てず、
やがて得宗専制とくそうせんせいは形骸化し、北条高時ほうじょうたかときの時代へと引き継がれます。
そして北条高時ほうじょうたかときもまた政治を顧みない人物だったことが、鎌倉幕府滅亡への道を開いていきます。

この事件は、「権力の頂点に立っても、それを使い続ける意志がなければ崩壊する」という歴史の一側面を示しています。


現代への学び

平禅門の乱へいぜんもんのらんから学べることは、「権力の空白は必ず誰かが埋める」という組織の原則です。

執権が幼少・不安定なとき、平頼綱たいらのよりつなのような実力者が空白を埋めることは歴史上くり返されています。
一方で、その「代行者」が強くなりすぎると、今度はそれを排除しなければならなくなる。

組織のトップが自分で舵を取り続けることの重要さと難しさを、
北条貞時ほうじょうさだときの生き様は教えてくれます。


まとめ|「裏の実力者」を討ち取った転換点

平禅門の乱へいぜんもんのらんは、1293年に北条貞時ほうじょうさだとき内管領うちかんれい平頼綱たいらのよりつな禅門ぜんもん)を討った事件です。

元寇げんこう後の混乱で台頭した平頼綱たいらのよりつなを滅ぼすことで、
貞時さだときはいったん権力を手に戻しましたが、その後の政治は安定しませんでした。
この事件は、鎌倉幕府の動揺期における重要な転換点として位置づけられています。

動揺期の流れ全体を確認したい方は→ 鎌倉時代の動揺期
出来事の流れを一覧で見たい方は→ 鎌倉時代の出来事一覧


参考資料

  • 吾妻鏡あずまかがみ(永仁元年4月条)
  • 日本大百科全書(ニッポニカ)「平禅門の乱へいぜんもんのらん」の項

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