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嘉吉の乱とは?|将軍・足利義教が暗殺され、幕府の権威が傷ついた事件

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嘉吉の乱かきつのらん」という名前を聞いても、何が起きたのかすぐに思い浮かぶ人は少ないかもしれません。

1441年(嘉吉かきつ元年)、播磨はりま守護・赤松満祐あかまつみつすけが、自邸での宴に招いた将軍・足利義教あしかがよしのりをその場で暗殺するという事件が起きました。現役の将軍が家臣にあたる守護大名に討たれるという、室町時代を通じても前例のない出来事です。この記事では、なぜこの事件が起きたのか、そしてそれが室町幕府にどんな影響を残したのかを整理します。

ひこまる

将軍が家臣に暗殺されるなんて、そんなことが本当にあったの?

やたまる

将軍が、家臣の守護大名に暗殺されるなんて、ちょっと信じられないんじゃが…一体何が起きたんじゃ?

目次

結論:嘉吉の乱かきつのらんはどういうものだったのか

嘉吉の乱かきつのらんとは、1441年(嘉吉かきつ元年)6月、播磨はりま備前びぜん美作みまさかの守護を務める赤松満祐あかまつみつすけが、自邸での宴に招いた将軍・足利義教あしかがよしのりを家臣に討たせて暗殺し、その後幕府軍に攻められて滅亡した事件です。将軍が守護大名に暗殺されたという衝撃は大きく、室町幕府の権威が大きく揺らぐきっかけとなりました。

嘉吉の乱かきつのらんとは何か

嘉吉の乱かきつのらんとは、1441年6月24日、播磨はりま守護・赤松満祐あかまつみつすけの子・教康が京都の自邸(西洞院にしのとういん)で開いた宴に将軍・足利義教あしかがよしのりを招き、酒宴と能楽の最中に甲冑を着た武者が乱入して義教よしのりを殺害した事件です。

実行犯は赤松氏の家臣・安積行秀でした。近習として同席していた山名熙貴・細川持春ほそかわもちはるらはとっさに反撃しましたが、儀礼用の武器しか持っていなかったため、持春は討ち死に、大内持世おおうちもちよも深手を負って後に亡くなりました。管領かんれい細川持之ほそかわもちゆきをはじめ、同席していた守護や近習たちは義教よしのりの遺体を残したまま現場から逃げ帰り、義教よしのりの首はそのまま赤松氏の手に渡りました。

満祐みつすけはその後播磨はりまへ逃れましたが、幕府軍の攻撃を受けて同年9月、籠城していた城山城きのやまじょうで自害し、赤松氏は守護家としての地位を一旦失いました。

なぜ嘉吉の乱かきつのらんは起きたのか

義教よしのりの「恐怖政治」が満祐みつすけを追い詰めていた

足利義教あしかがよしのりは、意に沿わない者を厳しく弾圧する政治を行い、当時の人々から「万人恐怖ばんにんきょうふ」と評されるほどの将軍でした。武家だけでなく公家に対しても容赦のない態度を取り、その弾圧の対象は赤松満祐あかまつみつすけにも及んでいきます。

赤松家中の人事をめぐる対立が積み重なっていた

満祐みつすけの父・赤松義則あかまつよしのりが亡くなったとき、4代将軍・足利義持あしかがよしもちは本来の後継者である満祐みつすけに守護職を継がせず、お気に入りの一族・赤松持貞あかまつもちさだに継がせようとしました。満祐みつすけはこれに激怒しましたが、持貞が不祥事で切腹したことで、結局守護職は満祐みつすけに安堵されています。義教よしのりの代になると、義教よしのり満祐みつすけの従兄弟にあたる赤松満政あかまつみつまさを厚遇する一方、満祐みつすけには所領の没収や守護職を取り上げる構えを見せるなど、満祐みつすけを精神的に追い詰めていきました。

「次は自分が討たれる」という疑心が満祐みつすけを決断させた

義教よしのりによる度重なる揺さぶりを受け、満祐みつすけは「次は自分が義教よしのりに討たれるのではないか」という疑心に陥り、出仕しなくなっていたといわれています。当時の人々はこの様子を「狂乱」と噂していました。この追い詰められた状況が、満祐みつすけを将軍暗殺という前例のない行動に走らせたと考えられています。

ひこまる

満祐みつすけは、どうしてそこまで追い詰められていたの?

やたまる

義教よしのり満祐みつすけの所領を奪おうとする動きを見せておったからじゃ。次は自分が討たれるんじゃないかと、満祐みつすけは本気で恐れておったんじゃろう。

誰が関わったのか

足利義教あしかがよしのり:室町幕府6代将軍。強権的な統治で「万人恐怖ばんにんきょうふ」と評され、赤松満祐あかまつみつすけを追い詰める側に回っていました。

赤松満祐あかまつみつすけ播磨はりま備前びぜん美作みまさかの守護。義教よしのりの弾圧に疑心を深め、自邸での宴に義教よしのりを招いて暗殺を実行させました。

赤松教康あかまつのりやす満祐みつすけの子。京都の自邸で宴を主催し、義教よしのりを招き入れました。

山名持豊やまなもちとよ(宗全):のちに幕府軍の主力として赤松氏討伐に当たった守護大名です。

細川持之ほそかわもちゆき管領かんれい義教よしのり暗殺後の幕府の対応を取りまとめ、赤松氏討伐を指揮しました。

どう進んだのか

経緯をミニフローで整理します。

  • 1427年(応永おうえい34年):赤松満祐あかまつみつすけの父・義則が死去。将軍・足利義持あしかがよしもち満祐みつすけへの守護継承を渋り、対立が始まる
  • その後、義教よしのりの代になっても満祐みつすけへの揺さぶりが続き、満祐みつすけとの関係が悪化していく
  • 1441年(嘉吉かきつ元年)6月24日:赤松教康あかまつのりやすが京都の自邸で宴を開き、将軍・足利義教あしかがよしのりを招く
  • 酒宴の最中、武者が乱入し義教よしのりを暗殺する。近習らは反撃するも討ち死にや負傷が相次ぐ
  • 満祐みつすけ播磨はりまへ逃走。幕府はすぐには動かず、対応が遅れる
  • 幕府がようやく評定を開き、義教よしのりの子・千也茶丸(のちの7代将軍・足利義勝あしかがよしかつ)を後継者とし、赤松氏討伐を命じる
  • 1441年8〜9月:幕府軍が播磨はりまに進軍し、赤松氏の拠点を次々と攻略する
  • 1441年9月10日:満祐みつすけが籠もる城山城きのやまじょうが落城し、満祐みつすけは自害する

結果どうなったのか

赤松満祐あかまつみつすけは自害し、嘉吉の乱かきつのらんは幕府軍の勝利で終結しました。論功行賞では、満祐みつすけ討伐で活躍した山名持豊やまなもちとよらが播磨はりま備前びぜん美作みまさかの守護職を得て勢力を大きく伸ばし、赤松氏は守護大名としての地位を一旦失うことになりました。

一方で、将軍が暗殺されてから幕府が討伐に動き出すまでの対応の遅さは、幕府の指導力に対する不安を周囲に強く印象づける結果にもなりました。

室町時代全体への影響

嘉吉の乱かきつのらんは、現役の将軍が守護大名に暗殺されるという、室町時代を通じても前例のない事件でした。将軍権力の絶対性が大きく揺らぎ、その後の幕府は将軍個人の強さに頼る統治から、守護大名たちの力関係に左右される不安定な体制へと傾いていきます。

この事件で勢力を大きく伸ばした山名氏は、その後も幕府内で大きな存在感を持ち続け、後の応仁おうにんの乱でも中心的な役割を担うことになります。嘉吉の乱かきつのらんは、室町幕府の権威が下り坂に入っていく、大きな分岐点だったといえます。

関連人物・関連出来事

足利義教あしかがよしのり嘉吉の乱かきつのらんで暗殺された6代将軍

足利義勝あしかがよしかつ義教よしのりの跡を継いだ7代将軍。幼少のため政権は周囲に支えられた

赤松満祐あかまつみつすけ嘉吉の乱かきつのらんを起こした播磨はりま守護

山名持豊やまなもちとよ(宗全):嘉吉の乱かきつのらんの戦後処理で勢力を拡大し、後の応仁おうにんの乱にも関わる

明徳めいとくの乱:山名氏が将軍によって勢力を削られた、嘉吉の乱かきつのらんとは逆方向の事件

まとめ

嘉吉の乱かきつのらんは、1441年、将軍・足利義教あしかがよしのりの度重なる弾圧に追い詰められた播磨はりま守護・赤松満祐あかまつみつすけが、自邸での宴に義教よしのりを招いて暗殺した事件です。満祐みつすけ自身は幕府軍に攻められて滅亡しましたが、将軍が守護に討たれたという衝撃は大きく、室町幕府の権威が揺らいでいく大きな転換点となりました。

現代への学び

追い詰められた人や組織は、時として予測できない極端な行動に出ることがあります。嘉吉の乱かきつのらんは、相手を圧迫し続けることがどれほどの不安や反発を生むかを、将軍暗殺という極端な形で示した出来事だといえるかもしれません。

ひこまる

嘉吉の乱かきつのらんの後、幕府ってどうなっていくの?

やたまる

将軍の力が弱まって、守護大名たちの存在感がどんどん大きくなっていくんじゃ。その流れが、後の応仁おうにんの乱にもつながっていくんじゃぞ。

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参考資料・参考図書(外部のみ)

  • 『戦乱と政変の室町時代』(参考資料PDF・OCR版)
  • 嘉吉の乱かきつのらん」「赤松満祐あかまつみつすけ」「足利義教あしかがよしのり」 – Wikipedia
  • 嘉吉の乱かきつのらん」 – コトバンク(国史大辞典・日本大百科全書)
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