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士道と武士道は何が違う?――戦わない時代、武士に山鹿素行が求めた役割

平和な江戸の城下町を見つめながら筆と書物を手にする武士の歴史イラスト
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江戸時代の武士は、戦場で敵と斬り合う存在ではなくなっていました。260年近く大きな戦がない時代に、武士は何をして生きていたのでしょうか。この問いに正面から向き合った江戸前期の人物が、山鹿素行やまがそこうです。

このシリーズ第1回では、新渡戸稲造が明治時代に英語で書いた『武士道』を取り上げました。今回はその約230年前、江戸の武士自身が「自分たちはなぜ存在するのか」を問うていた、山鹿素行の議論を見ていきます。似た言葉である「士道」と「武士道」が何を意味するのかも、あわせて整理します。

ひこまる

戦がないなら、武士っている意味あるの…?

やたまる

実はその疑問、江戸時代の武士自身も抱えていたんじゃ。山鹿素行という人が、真正面からこの問題に取り組んだんじゃよ。

目次

この記事でわかること

  • 山鹿素行はどのような人物か(読み方は「やまがそこう」)
  • 戦うことが減った江戸時代に、武士の存在理由がどう問われたか
  • 山鹿素行が説いた武士の「職分」とはどのようなものか
  • 「士道」と「武士道」は同じ言葉なのか、違う言葉なのか
  • 山鹿素行の理念と、実際の江戸時代の武士との違い

山鹿素行とはどのような人物か

山鹿素行やまがそこう(1622〜1685)は、江戸時代前期の儒学者・兵学者です。陸奥国会津若松(現在の福島県)に、浪人の子として生まれました。6歳で江戸に移り、9歳で儒学者林羅山はやしらざんに入門して朱子学を学び、15歳から兵学者小幡景憲おばたかげのり北条氏長ほうじょううじながに兵学を学びました。

若くして兵学の著作で名を上げ、1652年から1660年までは播磨国(現在の兵庫県)赤穂藩あこうはんの藩主浅野長直あさのながなおに仕え、兵学を教えました。江戸へ戻ったのち、40歳を過ぎた頃から当時の官学だった朱子学に疑問を持つようになり、周公・孔子の教えへ直接立ち返るべきだとする「古学」を唱えます。1665年、その立場を体系的にまとめた『聖教要録せいきょうようろく』を著したところ「不届きな書物」とされ、翌1666年、幕府によって再び赤穂藩へお預けの身となりました。この処分の背景には、朱子学を支持する幕閣保科正之ほしなまさゆきの意向があったとされています。

赤穂での9年間、山鹿は浅野家から厚遇を受け、兵学・儒学を教え続けました。この間の門人の一人が、のちに赤穂浪士を率いることになる大石良雄おおいしよしお内蔵助くらのすけ)です。1675年に赦免されて江戸へ戻り、以後は主に兵学の講義と著述に努め、1685年に64歳で亡くなりました。

戦のない時代、武士の存在理由が問われた

山鹿素行が生きた時代は、1637〜38年の島原の乱を最後に、徳川日本が大規模な戦乱をほとんど経験しなくなった時期と重なります。武士はもはや、日々戦うために存在する集団ではなくなっていました。

それでも武士という身分と特権は残り続けます。田を耕す農民、道具を作る職人、商いをする商人と違い、武士は自ら何かを生産することも、売り買いすることもありません。戦うことが仕事だったはずの武士が、戦わない時代に何をして生計を立て、社会に対して何を果たすべきなのか。山鹿はこの問いを、自らの著作の中で正面から取り上げています。

山鹿素行の職分論とは

山鹿の議論を確認できる資料として、今回はコロンビア大学出版局が刊行した学術資料集『Sources of Japanese Tradition』(第2版、2005年)に収録された、山鹿の著作からの英訳抜粋を確認しました。原文(漢文訓読体の日本語)そのものではなく、英訳からの重訳であることをあらかじめお断りしておきます。

この資料の中で山鹿は、まず次のように自問します。農民・職人・商人はそれぞれ田を耕し、道具を作り、商いをして人々の必要を満たしているのに、武士は耕すことも、作ることも、売り買いすることもせずに生計を立てている。これはどういう理由によるのか、と。

武士は耕さず、道具を作らず、売り買いによる利益も得ない。それでいて何の役割も果たさない者は、単なる遊び人と呼ぶべきだろう。

山鹿素行の職分論(英訳からの要約的重訳)。出典:Sources of Japanese Tradition, 2nd ed., vol.2, pp.192-193

そのうえで山鹿は、武士の「職分」を次のように説明します。自らの立場をわきまえ、主君に忠義を尽くし、友人との信頼関係を保ち、何よりも「義」を優先して実践すること。農工商は生業に追われて道徳の実践に専念する余裕がないが、武士は生業を持たない分、この道の実践に専念できる、というのが山鹿の理屈です。さらに、農工商の中に道徳に背く者が現れれば武士がこれを正す役割を担うべきだとし、農工商の三民は武士を「師」として敬うべきだとも述べています。

まとめると、山鹿の職分論は「武士は生産こそしないが、社会全体の道徳的な手本であり、必要なら秩序を正す役割を担う」という理屈で、武士の存在理由を説明しようとするものでした。

ひこまる

なるほど、「戦う人」から「お手本になる人」に、武士の役割が変わっていったってこと?

やたまる

山鹿の理屈ではそうなるじゃろうな。ただし、これはあくまで山鹿の主張じゃ。実際の武士がみんなその通りだったかは、また別の話なんじゃよ。

武士は本当に民衆の模範だったのか

ここで注意したいのは、山鹿が示したのはあくまで「武士はこうあるべきだ」という理念だという点です。すべての武士が、この職分論の通りに生きていたことを示す史料ではありません。

同じように、「農工商の三民は武士を師として敬う」という一文も、山鹿自身の主張であって、当時の庶民が実際に武士をどう見ていたかを直接示すものではありません。庶民側の史料でこの点を裏付けられるかどうかは今回の調査では確認できておらず、今後の課題です。理想として示されたことと、実際に社会でそれが実現していたことは、分けて考える必要があります。

士道と武士道は何が違うのか

「士道」と「武士道」は、しばしば同じ意味で使われますが、研究上は区別されることがあります。平凡社『世界大百科事典』の「武士道」項目によれば、近世の士道論を代表するのが山鹿素行であり、狭い意味での武士道論を代表するのは、江戸中期に成立した『葉隠はがくれ』だとされます。両者とも「武士としての心構え・生き方」という共通の関心を持ちますが、死への向き合い方に違いがあるとこの解説は説明します。山鹿は「常に死を心にあてておくべきだ」としたのに対し、『葉隠』は「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という一文で知られています。

ただし、この整理を「士道=正しく穏やかな理論」「武士道=過激で戦闘的な理論」という単純な対立として理解するのは適切ではありません。「武士道」という言葉自体は、新渡戸稲造が明治時代に発明したものではなく、笠谷和比古の研究(「武士道概念の史的展開」『日本研究』35号、2007年、国際日本文化研究センター)によれば、新渡戸以前の江戸時代の複数の文献(『甲陽軍鑑』など)にすでに登場していたことが指摘されています。「武士道」という語自体は江戸時代を通じて使われ続けており、論者や時代、資料によって意味の重なりや強調点の違いがあったと考えるほうが、確認できた資料に対して誠実な整理といえます。

項目山鹿素行の士道論狭義の武士道論(葉隠を中心に)
主に扱う時代江戸前期(17世紀後半)江戸中期(18世紀初め)
主な問題意識戦のない時代に、武士は何のために存在するのか武士としての心構え、死への向き合い方
想定される相手武士自身、特に主君・朋友・農工商との関係主に武士自身の心のありよう
強調される役割忠義・信・義の実践、農工商への道徳的模範死をつねに覚悟しておくこと
注意点あくまで山鹿個人の理念。江戸の武士全体の実態ではない『葉隠』も一つの立場であり、武士道全体を代表するわけではない
この記事で整理する、山鹿素行の士道論と後世に広がった武士道像の違い(研究上の一つの整理であり、絶対的な定義ではありません)

山鹿素行と新渡戸稲造では何が違うのか

このシリーズ第1回で取り上げた新渡戸稲造『武士道』と、今回の山鹿素行を比べると、時代・読者・問題意識のいずれもが異なります。山鹿は江戸前期、武士自身に向けて日本語(漢文訓読体)で「戦わない武士はどう生きるべきか」を論じました。一方の新渡戸は、約230年後の明治時代、海外の読者に向けて英語で「日本人の道徳観とは何か」を説明しようとしました。

山鹿の議論が新渡戸にどの程度、どのような経路で影響したのかは、今回の調査では確認できていません。山鹿から新渡戸へ一直線に武士道が発展していった、という単純な歴史像として描くことは避け、それぞれ別の時代・文脈で生まれた議論として扱うのが適切です。

忠義は主君への盲従だったのか

シリーズ第1回では、新渡戸稲造が『武士道』第9章で、主君にへつらうだけの家臣を軽んじ、意見が異なる場合はまず主君を説得するのが忠義の道だと説明していたことを確認しました。では、山鹿素行はどう考えていたのでしょうか。

今回確認できた山鹿の職分論の資料には、忠義が武士の職分の一部であることは書かれていましたが、主君を諫めることについての具体的な記述は含まれていませんでした。したがって、「山鹿にとって、主君の過ちを正すことこそ忠義だった」と断定することは、今回の調査ではできません。これは新渡戸の忠義論とは別の論点であり、混同しないよう注意が必要です。忠義には、主君への服従、責任、人間関係の維持など複数の要素が絡んでおり、山鹿自身の諫言論の詳細は、今後の調査課題として残します。

ひこまる

じゃあ「山鹿素行の忠義」については、まだよくわからないってこと?

やたまる

そうじゃ、今回確認できた範囲では判断できなかった。わからないことを、わかったことのように書かないのも大事なんじゃよ。

現代の「立場に伴う責任」から考える

山鹿の職分論には、「生産に直接関わらない者ほど、その分だけ重い道徳的責任を負うべきだ」という構造があります。ここから、現代の政治家や公務員、経営者など、大きな権限を持つ立場の人ほど、それに見合う重い責任を負うべきではないか、という問いを引き出すことはできます。

ただし、これはあくまで現代の私たちが山鹿の議論から引き出せる「問い」であり、山鹿の議論そのものが現代社会への提言だったわけではありません。山鹿の職分論は、生まれによって身分が固定された江戸時代の身分制度を前提にしています。士農工商という身分制を現代に復活させるべきだ、という話ではもちろんありません。現代の特定の政治家や経営者をこの記事で一方的に批判する意図もありません。「力や地位を持つ者に、それに見合う責任が求められるのではないか」という問いだけを、山鹿の議論から現代へ持ち帰りたいと思います。

まとめ

山鹿素行は、戦のない時代に武士の存在理由を問い、「職分」という形でその役割を説明しようとした、江戸前期の重要な人物の一人です。忠義・信・義の実践と、農工商への道徳的な模範であることを武士の役割とした一方で、それはあくまで山鹿が示した理念であり、当時の武士全体の実態そのものではありません。

また、「士道」と「武士道」は、単純に二つに分けられる完成した体系ではなく、時代や論者によって強調点の異なる語られ方をしてきた言葉です。山鹿の士道論と、新渡戸稲造が明治に説明した武士道は、時代も読者も問題意識も異なります。

「力や地位を持つ者は、何によってその立場に値するのか」。この問いは、山鹿が生きた江戸時代から、現代まで形を変えて残り続けているのかもしれません。

次回の記事へつながる問い

  • 山鹿素行自身は、主君への諫言についてどう論じていたのか
  • 「士道」と「武士道」という言葉は、いつ、どのように使い分けられるようになったのか
  • 大石内蔵助ら赤穂浪士の行動は、山鹿の教えとどこまで関係していたのか
  • 江戸時代の切腹は、法制度としてどのように位置づけられていたのか

参考資料・出典

  • Wm. Theodore de Bary, Carol Gluck, Arthur E. Tiedemann (eds.), Sources of Japanese Tradition, 2nd ed., vol.2 (New York: Columbia University Press, 2005), pp.192-194(山鹿素行の職分論、英訳抜粋。Columbia University “Asia for Educators” 公開資料経由で確認/該当PDF
  • 笠谷和比古「武士道概念の史的展開」『日本研究』35号、231-274頁、2007年、国際日本文化研究センター(要旨を確認/CiNii Research
  • 「山鹿素行」日本大百科全書(ニッポニカ)・世界大百科事典・デジタル大辞泉・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・山川日本史小辞典・デジタル版日本人名大辞典+Plus(コトバンク経由で確認/コトバンク
  • 「武士道」世界大百科事典(士道論と武士道論の項目。コトバンク経由で確認/コトバンク

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