1960年の安保改定は、1951年に結ばれた日米安全保障条約を改め、新しい「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」を結んだ出来事です。
新条約は、アメリカの日本防衛義務を明記し、在日米軍の配置・装備の重要な変更などを事前協議の対象としました。条約の期限や経済協力も定め、旧条約の一方的な性格を改める内容を含みます。
一方、在日米軍基地の継続と、日本がアメリカの戦争へ巻き込まれる可能性への懸念は残りました。
国会では、岸信介内閣が警察官を導入した混乱の中で採決と会期延長を進めました。条約の内容に対する反対と、審議手続への反発が結び付き、労働組合、学生、市民、研究者、文化人などが参加する大規模な運動へ広がります。
条約の内容と、決め方への反発
米国の防衛義務と事前協議を評価する政府に対し、反対派は基地継続、極東条項、戦争への巻き込まれを問題にしました。
警察官を院内へ入れ、野党議員を排除した採決に、議会制民主主義を損なうという批判が集中しました。
1951年の旧安保条約には何があったのか
日本は1951年9月、サンフランシスコ平和条約と同じ日に、アメリカと安全保障条約を結びました。
平和条約発効後、日本は独立を回復しますが、武装解除後の防衛力は限られていました。旧安保条約は米軍が日本国内の施設・区域を使用できる根拠を定めました。
しかしアメリカが日本を守る義務は明文で定められておらず、日本国内の大規模な内乱や騒擾への対応に米軍を使用できる条項もありました。
米軍が日本の基地から出撃する際、日本政府が協議に参加する仕組みも明確ではありません。
日本側には、占領直後に結ばれた不平等な条約だという不満がありました。岸内閣は、日米双方の義務を明確にし、日本の発言権を強める改定を目指します。
新しい条約は何を変えたのか
新条約は1960年1月19日、ワシントンで岸信介首相とアイゼンハワー政権の代表によって署名されました。
アメリカの日本防衛義務
第5条は、日本の施政下にある領域で日米いずれかに武力攻撃があった場合、両国が自国の憲法上の規定と手続に従い、共通の危険へ対処すると定めました。
旧条約に明記されなかったアメリカの対日防衛義務が条文に入りました。
在日米軍と事前協議
第6条は、極東の平和と安全のため、米軍が日本国内の施設・区域を使用できるとしました。
条約と同時の交換公文で、在日米軍の配置・装備の重要な変更、日本から行われる戦闘作戦行動のための基地使用を事前協議の対象とします。
ただし事前協議が日本にどこまで実質的な拒否権を与えるか、核兵器の持込みをどう扱うかには疑念が残りました。
経済協力と条約期限
第2条は経済政策の協調と経済関係の発展を掲げました。
また条約発効から10年を経過した後、どちらか一方が終了を通告すれば1年後に終了できる規定が置かれました。期限の定めがなかった旧条約からの変更です。
なぜ反対運動が広がったのか
戦争へ巻き込まれる懸念
反対派は、在日米軍基地が「極東の平和と安全」のために使われれば、日本の防衛と直接関係しないアメリカの軍事行動へ日本が巻き込まれると考えました。
1950年代は朝鮮戦争後も東西冷戦が続き、台湾海峡やインドシナでも緊張が高まっていました。基地からの出撃と核兵器持込みへの不安は、戦争の記憶が新しい社会で強く受け止められます。
岸信介への不信
岸は戦時中の東条英機内閣で商工大臣を務め、敗戦後にA級戦犯容疑者として拘置された経歴を持ちました。起訴されず釈放されましたが、戦前の国家体制と結び付いた政治家という印象が反対運動を強めました。
多様な参加者を結んだ運動
1959年、社会党、総評、市民団体などが安保改定阻止国民会議を結成しました。
労働組合のストライキ、学生の国会デモ、学者・作家・宗教者・女性団体などの声明と集会が重なります。
参加理由は同じではありませんでした。条約そのものへの反対、核戦争への恐怖、基地問題、岸内閣への不信、議会手続を守る要求が、一つの大きな運動に集まりました。
5月19日から20日、国会で何が起きたのか
新条約を成立させるには、国会の承認が必要でした。
衆議院の日米安全保障条約等特別委員会では、与党自由民主党と野党が審議期間や採決をめぐって対立します。
5月19日、自由民主党は会期延長と条約承認を進めるため、警察官を国会内へ導入しました。野党議員らが排除される混乱の中、委員会で条約承認案が採決されます。
翌20日未明、自由民主党議員を中心とする衆議院本会議で条約承認案が可決されました。
政府・与党は審議を尽くして採決する権限があるとしました。反対派は、警察力を使って野党を排除した採決は、条約内容以前に議会制民主主義を損なうと批判しました。
この国会運営が、反対運動をさらに大きくする転機になります。
6月15日の衝突と樺美智子の死
条約承認をめぐる抗議は国会周辺で繰り返されました。
6月15日、全学連の学生らが国会構内へ入り、警官隊と激しく衝突しました。東京大学学生の樺美智子が死亡し、多数の負傷者が出ます。
政府と運動側は、国会侵入、警察の警備、暴力の責任をめぐって対立しました。
樺の死は運動参加者を越えて、社会へ大きな衝撃を与えました。6月18日夜から19日には大勢の市民が国会周辺へ集まりましたが、大規模な流血衝突は避けられました。
アイゼンハワー米大統領の訪日は中止され、岸内閣は条約発効後に退陣を表明します。
「自然承認」とは何か
日本国憲法第61条は条約承認に衆議院の優越を認め、第60条第2項の予算に関する規定を準用しています。
参議院が衆議院の可決後30日以内に議決しない場合、衆議院の議決が国会の議決になります。
参議院では承認の議決に至らず、6月19日に30日が経過しました。これが一般に「自然承認」と呼ばれるものです。
新条約は6月23日に批准書が交換され、同日発効しました。
署名、衆議院可決、自然承認、批准、発効は、それぞれ別の手続です。
安保改定で何が残ったのか
新条約はアメリカの日本防衛義務を明文化し、事前協議と条約終了の手続を設けました。政府が目指した旧条約の改善は、条文に反映されています。
一方、在日米軍基地は継続し、極東条項、核兵器、基地負担、米軍の作戦と日本政府の関与をめぐる議論は残りました。
政治面では、条約に賛成・反対する立場を越えて、警察力を伴う国会採決への批判が広がりました。
1960年安保闘争は、戦後の市民運動が国の外交・安全保障と議会運営を同時に問い、大規模な政治参加を示した出来事です。
改定と反対運動の流れ
日米両政府がワシントンで新しい安全保障条約へ署名しました。
警察官導入と野党排除を伴う採決が、反対運動を拡大させました。
学生と警官隊が衝突し、樺美智子が死亡しました。
憲法の30日規定で国会承認となり、批准書交換後に新条約が発効しました。
まとめ|安保条約と議会制民主主義が同時に問われた
1960年の安保改定は、占領直後に結ばれた旧安保条約を改め、日米の安全保障関係を再定義した出来事です。
新条約はアメリカの日本防衛義務、事前協議、経済協力、10年後の終了手続を定めました。一方、在日米軍基地と極東での軍事行動、核兵器、戦争への巻き込まれをめぐる懸念が残りました。
国会では警察官導入と野党排除を伴う採決が行われ、条約内容への反対に議会手続への批判が加わります。
労働組合、学生、市民、研究者、文化人などが参加した反対運動は、戦後日本の市民運動の大きな節目となりました。
条約は6月19日に自然承認、23日に発効しました。安保改定では日米関係の制度とともに、重要な政策をどのような手続で決めるのかが社会へ問われました。
参考資料・参考図書
- 外務省「1960年外交青書|日米安全保障条約の改定」
- 国立公文書館「新安保条約が発効する」
- 国立国会図書館「第6章 55年体制の形成」
- 国会会議録「第35回国会 参議院法務委員会」
- 外務省「日米安全保障条約の改定に係る経緯」

コメント