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会津戦争とは?会津藩はなぜ最後まで戦ったのか

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なぜ会津藩は、恭順を示しても戦争を避けられなかったのでしょうか。会津戦争は1868年(慶応4年)、新政府軍が会津藩を攻め、鶴ヶ城の降伏に至った戊辰戦争の中心的な戦いです。会津藩は京都守護職として旧幕府を支えた責任を問われ、恭順を示しても厳しい処分を避けられず、奥羽越列藩同盟とともに抵抗しました。

会津の人々が一枚岩で好戦的だったわけではありません。藩主と領地、家族、武士としての責任を守ろうとするなか、少年や女性まで戦争に巻き込まれました。

会津戦争をひとことでいうと

観点内容
いつ1868年8月〜9月
どこ会津若松・鶴ヶ城周辺
会津側会津藩兵、白虎隊など
新政府側薩摩・長州などの諸藩兵
結果鶴ヶ城が降伏し、会津藩が敗北

なぜ会津藩は攻撃されたのか

会津藩主松平容保は京都守護職として京都の治安維持を担い、長州藩など倒幕派と対立しました。新政府の中心となった勢力にとって、会津藩は旧幕府側の責任を象徴する存在でした。

会津藩は鳥羽伏見の戦い後に恭順を示しましたが、新政府は容保らの処分を求めます。仙台藩・米沢藩などの仲介も実らず、奥羽越列藩同盟が成立して戦争が拡大しました。

新政府軍はどうやって会津へ入ったのか

新政府軍は周辺の戦線を突破し、会津盆地へ進みました。会津藩は各地に兵を配置していたため、主力を城下へ集めるのが遅れます。新政府軍の進軍は速く、8月23日には若松城下へ迫りました。

城下で戦闘が起こり、鶴ヶ城は包囲されます。会津藩は約1か月にわたり籠城しましたが、食料や弾薬が乏しくなり、同盟諸藩も相次いで敗れたため、降伏を受け入れました。

誰がどう行動したのか

人物・部隊立場行動と意味
松平容保会津藩主藩の存続を図りながら抵抗し、最後は降伏した
白虎隊会津藩の少年部隊戦況悪化のなか出陣し、一部が飯盛山で自刃した
山本八重会津藩士の家族鶴ヶ城に入り、銃を用いて籠城戦に加わった
西郷頼母ら会津藩重臣藩内で恭順・抗戦など異なる意見を抱えた

白虎隊と山本八重は何を示しているのか

会津藩では年齢別に部隊が編成され、16〜17歳を中心とする白虎隊も戦場に出ました。その一部は飯盛山から城下の火災を見て落城したと誤認し、自刃します。この悲劇は、少年まで正規の戦力として動員された戦争の厳しさを示します。

女性たちも籠城や救護に関わりました。山本八重はスペンサー銃を持って戦闘に参加したことで知られます。ただし、個人の勇敢さだけで語ると、住民を含む多くの人々が戦争に巻き込まれた事実を見失います。

なぜ会津藩は敗れたのか

会津藩には強い戦意がありましたが、兵力を各地に分散させ、新政府軍の速い進撃への対応が遅れました。武器や補給にも差があり、奥羽越列藩同盟の結束も崩れていました。

会津藩だけの力で全国から兵を集める新政府に対抗することは困難でした。9月22日、会津藩は鶴ヶ城を開き、降伏します。

まとめ

会津戦争は、京都守護職として旧幕府を支えた会津藩の責任を新政府が追及し、交渉がまとまらないまま起きた戦争です。会津藩は藩主と領地を守ろうと抵抗しましたが、軍事力・補給力と同盟の結束で劣り、降伏しました。

白虎隊や山本八重の物語は人々の覚悟を伝える一方、その覚悟を少年や住民にまで求めた内戦の悲惨さも伝えています。

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