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前田利家とは?秀吉の盟友・加賀百万石を築いた五大老の重鎮をわかりやすく解説

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前田利家まえだとしいえ(1538〜1599年)は、織田信長おだのぶなが豊臣秀吉とよとみひでよしという二人の天下人に仕えた武将です。「槍の又左やりのまたざ」の異名を持つ槍の名手として知られ、秀吉ひでよしの最も信頼する盟友として豊臣政権の安定を支えました。秀吉ひでよしの死後には五大老の重鎮として豊臣家を守る最後の砦となりましたが、その死後まもなく関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいへの道が開かれることになります。加賀かが百万石を礎として江戸時代に続く前田家の歴史を築いた人物でもあります。

3行でわかる前田利家まえだとしいえ

  • 織田信長おだのぶなが豊臣秀吉とよとみひでよしに仕え、「槍の又左やりのまたざ」と呼ばれた武将。秀吉ひでよしとは特に深い盟友関係にあった
  • 秀吉ひでよしの死後は五大老の重鎮として豊臣政権を守ったが、利家としいえの死後に石田三成いしだみつなりvs徳川家康とくがわいえやすの対立が表面化した
  • 加賀かが百万石の礎を築き、文化・経済の発展にも力を注いだ。前田家は江戸時代最大の外様大名として存続した

基本プロフィール

生年天文てんぶん7年(1538年)
没年慶長けいちょう4年(1599年)
出身尾張おわり国愛知郡荒子あらこ(現・愛知県名古屋市)
主君織田信長おだのぶなが豊臣秀吉とよとみひでよし
官位大納言だいなごん
異名槍の又左やりのまたざ
家紋梅鉢うめばち

尾張おわり時代と織田信長おだのぶながへの仕官

前田利家まえだとしいえは、天文てんぶん7年(1538年)に尾張おわり国愛知郡荒子あらこ(現・名古屋市中川区)で生まれました。荒子あらこ前田家の四男として育ち、若くして織田信長おだのぶながに小姓として仕えるようになります。利家としいえ信長のぶながより5歳ほど年下であり、同じ尾張おわり出身の若者として近い関係にあったとされています。

利家としいえが「槍の又左やりのまたざ」と呼ばれるようになったのも、この時代の武功に由来します。槍の名手として戦場で活躍したというイメージは広く知られますが、「又左」の異名や槍働きの具体的な逸話については、後世に付け加えられた脚色も含まれている可能性があります。ただし、利家としいえ信長のぶながの信任を受けた武将であったことは確かです。

若い頃、利家としいえ信長のぶながの寵臣を斬ってしまい、一時信長のぶながから追放される事件があったとされています。しかし、その後の功績により許されたとも伝えられています。この逸話もまた確認が難しい部分を含みますが、信長のぶなが利家としいえの間に単純な主従以上の複雑な関係があったことをうかがわせます。

賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい秀吉ひでよしとの関係

本能寺の変ほんのうじのへん後、豊臣秀吉とよとみひでよし柴田勝家しばたかついえが後継をめぐって対立し、天正てんしょう11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいが起きます。利家としいえはこのとき、秀吉ひでよし方でも勝家かついえ方でもなく、勝家かついえと同じく北陸にあって戦場の傍観者的な立場をとりました。戦況が秀吉ひでよし有利と見るや撤退したともいわれますが、その真意については諸説あります。

賤ヶ岳しずがたけの後、利家としいえ秀吉ひでよしに臣従します。秀吉ひでよし利家としいえは長年の親しい関係にあり、秀吉ひでよし利家としいえを非常に信頼していました。利家としいえは越前・加賀かが方面の統治を任され、北陸の要として秀吉ひでよしの天下統一を支えていきます。「秀吉ひでよし利家としいえは親友だった」という像は広く知られますが、二人はあくまでも主従かつ政治的盟友であり、その関係は単純な友情とは言い切れない部分もあります。

加賀かが百万石の礎

前田利家まえだとしいえは、秀吉ひでよしの天下統一の過程で加賀かが越中えっちゅう能登のとの支配を任され、やがて百万石を超える大きな領国を持つ大名となります。これが後の「加賀かが百万石」の礎です。

利家としいえは武将としての側面だけでなく、文化的な側面でも注目されています。利家としいえとその妻・まつは、加賀かがの地で能や茶の湯、工芸(加賀かが友禅・輪島塗など)の文化的基盤を整えたとされています。ただし、現在残る加賀かが文化の多くは利家としいえの後継たちが発展させたものであり、利家としいえ自身の直接の関与の程度については慎重に見る必要があります。

五大老の重鎮として豊臣政権を支える

慶長けいちょう3年(1598年)に豊臣秀吉とよとみひでよしが死去すると、幼い秀頼を守るため五大老・五奉行の体制が取られました。五大老は徳川家康とくがわいえやす前田利家まえだとしいえ宇喜多秀家うきたひでいえ毛利輝元もうりてるもと小早川隆景こばやかわたかかげ(のちに上杉景勝うえすぎかげかつが交代)で構成された上位の合議体です。

秀吉ひでよしの死後、石田三成いしだみつなりら奉行衆と徳川家康とくがわいえやすの対立が水面下で進む中、利家としいえは豊臣家に忠実な立場を保ちながら、双方の調停役として機能しようとしていたとされています。利家としいえの存在が、家康いえやすとの直接対立を一時抑制していたとも評価されています。

しかし慶長けいちょう4年(1599年)、前田利家まえだとしいえは病に倒れ、同年3月に死去しました。享年は61歳(数え年)。利家としいえの死後まもなく、家康いえやす石田三成いしだみつなりの対立は急速に表面化し、翌年の慶長けいちょう5年(1600年)に関ヶ原の戦いせきがはらのたたかいが勃発することになります。「利家としいえの死後に関ヶ原せきがはらへの扉が開かれた」とよく言われるのは、この経緯によります。

前田利家まえだとしいえの歴史的意義

前田利家まえだとしいえは、戦国時代の有名な「三英傑」(信長のぶなが秀吉ひでよし家康いえやす)に次いで語られることの多い武将のひとりですが、その存在意義は「何を成し遂げたか」よりも「何を防いでいたか」にあるかもしれません。利家としいえが存命中は、家康いえやす三成みつなりの対立が全面戦争に発展しなかったことは確かです。

また、前田家は江戸幕府の外様大名として加賀かが百万石を維持し、江戸時代を通じて最大の外様藩として存続しました。前田利家まえだとしいえが育てた加賀かがの地は、江戸時代には独自の武家文化・工芸文化が花開く場所となります。

前田利家まえだとしいえ 年表

天文てんぶん7年(1538年)尾張おわり荒子あらこに生まれる
天文てんぶん15年(1546年)ごろ織田信長おだのぶながに小姓として仕え始める
天正てんしょう11年(1583年)賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかい秀吉ひでよし勝家かついえの対立)。戦後、秀吉ひでよしに臣従
天正てんしょう12年(1584年)ごろ加賀かが能登のと越中えっちゅうの支配を拡大。加賀かが百万石の礎へ
慶長けいちょう3年(1598年)豊臣秀吉とよとみひでよしの死。五大老の重鎮として豊臣政権を支える
慶長けいちょう4年(1599年)病に倒れ死去。享年61歳。利家としいえの死後、関ヶ原せきがはらへの道が開かれる

まとめ

前田利家まえだとしいえは、信長のぶなが秀吉ひでよしの二代に仕えた武将で、「槍の又左やりのまたざ」の異名を持つ勇将でした。秀吉ひでよしの盟友として豊臣政権の安定を支え、五大老の重鎮として徳川家康とくがわいえやす石田三成いしだみつなりの対立を抑制しました。利家としいえの死後に関ヶ原せきがはらへの道が開かれたことは、その存在の大きさを物語っています。また加賀かが百万石の礎を築き、前田家を江戸時代最大の外様大名として存続させた点でも、戦国史に大きな足跡を残した人物です。

参考資料

小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年。
小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。


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