尊王攘夷とは、天皇を尊ぶ「尊王」と、外国勢力を退ける「攘夷」が結びついた幕末の思想・政治運動です。
ただし、尊王攘夷を最初から「幕府を倒す思想」だったと考えると、幕末の流れを見誤ります。尊王論は江戸時代の学問や政治思想のなかで育ち、攘夷論は外国船の接近と開国への不安から強まりました。二つが結びつき、条約締結をめぐって朝廷と幕府が対立したことで、幕府を批判する大きな力になっていったのです。
この記事でわかること
- 尊王と攘夷はそれぞれ何を意味するのか
- なぜ幕末に二つの考えが結びついたのか
- 朝廷が政治的な存在感を高めた理由
- 尊王攘夷がすぐに倒幕を意味しなかった理由
- 薩摩藩や長州藩が攘夷から方針を変えた過程
尊王攘夷を二つの言葉に分けて考える
尊王攘夷は、一つの考えとして突然生まれたわけではありません。
| 言葉 | 意味 | 幕末に強まった背景 |
|---|---|---|
| 尊王 | 天皇を尊び、その権威を重んじる | 国学や水戸学、朝廷の伝統的権威、条約勅許問題 |
| 攘夷 | 外国勢力を退け、日本の秩序を守ろうとする | 外国船の接近、アヘン戦争、開国と通商への不安 |
尊王は、ただちに幕府を否定する考えではありませんでした。江戸幕府の将軍は朝廷から任命される立場でもあり、天皇を尊びながら幕府に仕えることは両立すると考えられていました。
攘夷にも、外国人を感情的に排斥する考えだけでなく、欧米諸国の軍事力や植民地化を警戒し、日本の独立を守ろうとする危機感が含まれていました。
尊王論はどのように広がったのか
江戸時代後期には、国学や水戸学などを通じて、天皇と朝廷を重視する考えが広がりました。
水戸藩の後期水戸学では、天皇を尊ぶ尊王論と外国を退けようとする攘夷論が結びつきます。会沢正志斎が1825年に著した『新論』は、尊王攘夷論の形成に影響を与えました。
こうした思想は、外国船の来航が現実の政治問題になると、学問の世界だけにとどまらなくなります。梅田雲浜、梁川星巌、頼三樹三郎らの志士は京都に集まり、朝廷や公家へ働きかけました。
なぜ朝廷が政治へ関わるようになったのか
大きな転換点になったのが、日米修好通商条約をめぐる勅許問題です。
幕府は、アメリカとの通商条約を結ぶにあたり、朝廷から許可を得ようとしました。幕府が外交上の重要問題について朝廷の判断を求めたことで、朝廷は政治的な発言力を強めることになります。
孝明天皇は外国勢力への警戒が強く、条約に反対しました。老中・堀田正睦は勅許を得るため京都へ向かいましたが、成功しませんでした。
幕府は長く朝廷を政治権力の外に置いてきました。それにもかかわらず、幕府自身が条約の許可を求めたことで、朝廷が国の進路について意見を示す入口を開いたのです。
条約調印が尊王攘夷を政治運動に変えた
1858年、大老・井伊直弼は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印しました。
幕府側には、欧米諸国との衝突を避け、交渉を早くまとめなければならないという現実的な事情がありました。しかし反対派から見れば、天皇の意思に反して外国と条約を結んだことになります。
これにより、開国への不満と朝廷を尊ぶ思想が結びつきました。「幕府は外国から国を守れず、天皇の意思にも従わない」という批判が広がり、尊王攘夷は幕府政治を追及する言葉になっていきます。
尊王攘夷は最初から倒幕だったのか
尊王攘夷を唱えた人々のすべてが、初めから幕府を倒そうとしていたわけではありません。
幕府を立て直し、朝廷と協力して外国に対抗しようとした人もいました。朝廷と幕府を結びつける公武合体も、日本国内をまとめて対外危機に対応しようとした構想の一つです。
長州藩などで攘夷運動が激しくなる一方、薩摩藩や会津藩は朝廷と幕府の協調を重視する時期がありました。幕末の政治は、初めから「幕府対倒幕派」の二陣営に分かれていたのではありません。
攘夷の実行が示した現実
攘夷を実行しようとした勢力は、欧米諸国の軍事力に直面しました。
薩摩藩は生麦事件をきっかけにイギリスと薩英戦争を戦い、長州藩は外国船砲撃の後、四国艦隊の攻撃を受けます。両藩は戦いを通じて、外国勢力をただ武力で追い払うことが難しいと知りました。
その後、薩摩藩と長州藩は西洋の武器や技術を取り入れ、軍制を改革していきます。攘夷を実現するためにも、まず日本の政治と軍事を作り直さなければならないという方向へ変化したのです。
尊王攘夷はなぜ倒幕へつながったのか
尊王攘夷から倒幕への変化には、いくつもの出来事が重なっています。
- 条約問題によって幕府と朝廷が対立した
- 安政の大獄によって反対派が処罰された
- 桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された
- 京都で諸藩が朝廷への影響力を争った
- 外国との戦いで単純な攘夷の困難が明らかになった
- 薩摩藩と長州藩が幕府に代わる政治を構想した
尊王攘夷という言葉が、そのまま倒幕を意味したのではありません。外圧への対応に失敗し、朝廷や諸藩をまとめられなくなった幕府への不信が深まるなかで、尊王の対象である天皇を中心とした新しい政治構想へ変わっていったのです。
ジャパレキとして考える|攘夷は時代遅れの考えだったのか
攘夷を、外国を知らない人々の無謀な主張として片づけることはできません。
当時のアジアでは、清がアヘン戦争に敗れ、欧米諸国の進出が続いていました。外国への警戒には、日本の独立や社会の秩序を守ろうとする理由がありました。
一方で、危機感だけでは現実の外交と軍事に対応できません。薩摩や長州の人々は、戦いや失敗を経験し、外国の技術を学びながら方針を変えました。
幕末の尊王攘夷から見えてくるのは、最初から正解を知っていた人々の物語ではなく、守りたいものと現実の力関係の間で考えを変えていった人々の姿です。
まとめ
尊王攘夷とは、天皇を尊ぶ尊王論と、外国勢力を退けようとする攘夷論が結びついた思想・政治運動です。
条約勅許問題を通じて朝廷が政治的な存在感を高め、無勅許調印によって幕府への批判が強まったことで、尊王攘夷は幕末政治を動かす力になりました。
ただし、尊王攘夷は初めから倒幕を意味したのではありません。外国との戦い、安政の大獄、京都政局、薩長の方針転換を経て、天皇を中心とする新しい政治を目指す運動へ変わっていきました。
参考資料・参考図書
- 山村竜也『世界一よくわかる幕末維新』祥伝社、2018年、p32〜35
尊王攘夷がその後の倒幕と新政府成立へどうつながったのかは、明治維新とはで時系列に沿って確認できます。

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