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黒船来航と幕府の動揺|なぜ開国が江戸幕府を弱めたのか【明治維新・第1編】

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1853年7月、浦賀うらが沖。

水平線の向こうから、黒い煙を上げる四隻の艦船が姿を現しました。人々が「黒船」と呼んだアメリカ艦隊です。

率いていたのは、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー。目的は、日本をただ威嚇することではありませんでした。太平洋を航行するアメリカ船のため、燃料や食料を補給できる港を確保し、日本との交渉を始めることでした。

江戸幕府は、約260年続いた政治の中で最大級の決断を迫られます。

外国と戦うのか。要求を受け入れるのか。それとも、時間をかけて別の道を探すのか。

しかし黒船が突きつけたのは、外交問題だけではありません。

「日本の進む道を、誰が決めるのか」

この問いが、幕府、朝廷、諸藩を巻き込む政治対立へ変わっていきました。第1編では、ペリー来航から公武合体こうぶがったい和宮かずのみや降嫁までをたどり、なぜ開国が江戸幕府の権威を揺らしたのかを見ていきます。

目次

この編でわかること

問いこの記事でたどる答え
アメリカはなぜ来航したのか太平洋航路の寄港地と通商の可能性を求めたため
幕府はなぜ諸大名に意見を求めたのか戦争と開国のどちらにも大きな危険があり、単独で決めにくかったため
なぜ朝廷の許可が問題になったのか外交問題が幕府と朝廷の権威をめぐる国内政治へ変わったため
安政の大獄あんせいのたいごくはなぜ起きたのか条約と将軍継嗣をめぐる反対派を井伊直弼いいなおすけが処罰したため
公武合体は何を目指したのか朝廷と幕府の協力によって幕府の権威を回復するため

第1章|黒船はなぜ日本へ来たのか

19世紀、欧米諸国はアジアへの進出を進めていました。イギリスはアヘン戦争で清を破り、各国は東アジアで通商や軍事の拠点を求めます。

アメリカも太平洋へ活動範囲を広げていました。捕鯨船や商船が日本近海を航行し、蒸気船には石炭や水、食料を補給する港が必要でした。遭難したアメリカ人船員の保護も課題になっていました。

そのためアメリカ政府は、日本に港を開き、船へ物資を提供するよう求めます。交渉を任されたのがペリーでした。

1853年|ペリー来航

ペリー艦隊は浦賀沖に入り、大統領の国書を幕府へ渡しました。国書には、通商、船への補給、漂流民の保護などを求める内容が記されていました。

ペリーは返答を待たず、翌年に再び来ると告げて日本を離れます。

幕府には、限られた時間しか残されていませんでした。

関係人物: マシュー・ペリー/徳川家慶とくがわいえよし阿部正弘あべまさひろ

外国の軍事力を前に、幕府が即座に戦争を選ばなかったのは、単なる弱腰とは言い切れません。清がアヘン戦争で敗れた情報は日本にも伝わっていました。十分な準備のないまま戦えば、国土と人々に大きな被害が出る可能性があったからです。

第2章|幕府が諸大名へ意見を求めた意味

老中首座の阿部正弘は、アメリカの国書を諸大名へ示し、意見を求めました。さらに、海防について広く人材や知識を集めようとします。

これは、難局へ慎重に対応するための判断でした。しかし、幕府政治の歴史から見ると大きな変化でもあります。

それまで外交は、基本的に幕府が担う問題でした。諸大名へ意見を求めたことで、各藩は国の進路について発言する機会を得ます。

幕府は知恵を集めようとしました。その一方で、「幕府だけでは決められないほど問題が大きい」と自ら示す結果にもなったのです。

諸藩が海防と軍備に目を向ける

薩摩藩、長州藩、水戸藩などの有力藩は、海防や軍備、西洋技術への関心を強めました。反射炉の建設、砲術の研究、軍艦や武器の導入などが進みます。

外国への対応を通して、諸藩は幕府の命令を受けるだけの存在ではなく、国政へ意見を持つ政治勢力へ変わっていきました。

第3章|開国は、どのように始まったのか

1854年、ペリーは再び来航しました。幕府は日米和親条約にちべいわしんじょうやくを結び、下田と箱館はこだてを開きます。

ここで開かれたのは、自由な貿易を行うための港ではありません。アメリカ船へ薪、水、食料などを提供し、遭難者を保護するための港でした。

日米和親条約と日米修好通商条約の違い

条約主な内容大きな意味
日米和親条約1854年下田・箱館の開港、船への物資供給など幕府の対外政策が転換した
日米修好通商条約1858年複数港での貿易開始、外国人居留など日本が本格的な通商へ入った

この二つを同じ「開国」としてまとめると、流れが見えにくくなります。

最初に船を受け入れるための扉が開き、その後、貿易を行うための制度が作られました。

しかし本格的な通商条約を結ぶ段階で、幕府はさらに難しい問題へ直面します。

朝廷の許可です。

第4章|外交問題が、幕府と朝廷の対立へ変わる

孝明天皇こうめいてんのうは外国との通商に強い不安を持っていました。幕府は条約締結について朝廷の許可、つまり勅許ちょっきょを得ようとします。

ここにも矛盾がありました。

朝廷の権威を借りれば、条約への国内反発を抑えられるかもしれません。しかし許可を求めたことで、外交政策に朝廷が関与する道も開かれます。

幕府が勅許を得られなければ、「天皇の意思に反して外国と条約を結ぶのか」という批判を受けます。

外交をめぐる問題は、いつの間にか「幕府と朝廷のどちらが国の方針を決めるのか」という政治問題へ変わっていました。

第5章|もう一つの対立――次の将軍を誰にするのか

同じころ、幕府では第13代将軍徳川家定とくがわいえさだの後継者が問題になっていました。これが将軍継嗣問題しょうぐんけいしもんだいです。

候補をめぐり、幕府と諸藩は二つの勢力に分かれます。

勢力主な候補主な立場
南紀派なんきは徳川慶福とくがわよしとみ将軍家に近い血筋を重視
一橋派ひとつばしは一橋慶喜ひとつばしよしのぶ年長で政治経験のある人物を期待

南紀派には紀州藩や譜代大名、一橋派には水戸藩、薩摩藩、越前藩などが関わりました。

これは単なる後継者争いではありません。外国の圧力にどう対応し、誰が幕府改革を進めるのかという国政上の問題でした。

有力藩が将軍選びへ関わろうとしたこと自体、幕府と諸藩の力関係が変わり始めていたことを示しています。

将軍継嗣問題を詳しく読む →

第6章|井伊直弼の決断と安政の大獄

1858年、大老に就任した井伊直弼は、二つの問題に決着をつけます。

将軍後継には南紀派の徳川慶福、のちの徳川家茂とくがわいえもちを選びました。そして朝廷の勅許を得ないまま、日米修好通商条約へ調印します。

井伊の立場から見れば、外国との交渉をこれ以上遅らせれば、より不利な状況や軍事衝突を招く危険がありました。幕府の決定権を守るためにも、迅速な決着が必要だと判断したと考えられます。

一方、反対派から見れば、天皇の意思を無視し、有力藩の意見も退けた決定でした。

1858〜1859年|安政の大獄

井伊直弼は、条約締結や将軍継嗣に反対した大名、公家、志士らを処罰しました。徳川慶喜や松平慶永まつだいらよしながらは謹慎となり、吉田松陰よしだしょういん橋本左内はしもとさないらは処刑されます。

関係人物: 井伊直弼/徳川慶喜/松平慶永/吉田松陰/橋本左内

安政の大獄によって、幕府は一時的に反対派を抑えました。しかし処罰は、幕府への反発を消すのではなく、さらに深めます。

第7章|桜田門外の変――幕府の権威が雪の中で崩れる

1860年3月、雪の江戸城桜田門外。

登城中の井伊直弼の行列が、水戸藩を脱藩した浪士らに襲撃されました。井伊は暗殺されます。

幕府の最高権力者が、江戸城の門前で殺害されたのです。

なぜ衝撃が大きかったのか

桜田門外の変は、一人の政治家が命を落とした事件だけではありませんでした。

幕府が反対派を抑え込む力にも、将軍の城下を守る力にも限界があることを示しました。幕府の権威は目に見える形で傷つきます。

しかし、井伊直弼がいなくなっても、条約も開国も取り消せません。幕府は外国と向き合いながら、国内の反対も抑えなければならない状況に置かれました。

第8章|幕府と朝廷を結ぶ――公武合体という立て直し

井伊直弼の死後、幕府は強い処罰によって反対派を抑える路線を修正します。

新たに進めたのが公武合体でした。「公」は朝廷、「武」は幕府を指します。朝廷と幕府が協力する姿を示し、幕府の権威を立て直そうとする政策です。

その象徴となったのが、孝明天皇の妹・和宮と将軍徳川家茂の婚姻でした。

1862年|和宮降嫁

和宮は京都で生まれ育った皇女で、すでに婚約者がいました。それでも政治的な事情から婚約を解消し、江戸へ下ります。

幕府にとっては、朝廷との結びつきを示すための重要な一手でした。朝廷側には、幕府に攘夷の実行や条約問題への対応を求める意図がありました。

同じ婚姻に、幕府と朝廷は必ずしも同じ未来を見ていたわけではありません。

関係人物: 和宮/徳川家茂/孝明天皇

公武合体と和宮降嫁を詳しく読む →

公武合体によって、幕府と朝廷の対立が完全に解消されたわけではありません。むしろ、朝廷が政治の中心として注目される流れはさらに強まります。

開国によって何が変わったのか

黒船来航前の前提開国後に起きた変化
外交は幕府が担う諸藩と朝廷が外交政策へ関わるようになった
幕府が国政を決定する幕府の判断に公然と反対する勢力が現れた
朝廷は政治から距離を置く天皇の意思と勅許が政治問題になった
諸藩は幕府の統制を受ける有力藩が海防・軍備を整え、国政へ発言した
武力行使は幕府が管理する脱藩浪士や志士による政治的暴力が広がった

幕府が弱くなった理由を、「黒船が怖かったから」とだけ説明することはできません。

外国への対応を決める過程で、幕府が諸藩や朝廷へ政治参加の道を開きました。条約、将軍継嗣、反対派への処罰をめぐり、幕府への信頼も揺らぎます。

外からの圧力が、国内にあった政治上の矛盾を表面へ押し出したのです。

第1編で分かったこと

  • アメリカは太平洋航路の寄港地などを求め、日本へ開国を要求した
  • 幕府が諸大名へ意見を求めたことで、有力藩が国政へ参加する機会が生まれた
  • 朝廷の勅許を求めたことで、外交問題が幕府と朝廷の権威をめぐる問題になった
  • 日米修好通商条約と将軍継嗣問題が結びつき、政治対立が激しくなった
  • 安政の大獄と桜田門外の変によって、幕府の権威は大きく傷ついた
  • 公武合体は幕府の立て直し策だったが、朝廷の政治的重要性をさらに高めた

まとめ|黒船が揺らしたのは、幕府政治の前提だった

ペリー来航によって、幕府は戦争か開国かという難しい判断を迫られました。

幕府は戦争を避け、段階的に開国へ進みます。その判断自体には、現実的な理由がありました。しかし決定の過程で諸藩と朝廷が国政へ関わり、幕府だけが政治を決める仕組みは崩れ始めます。

井伊直弼は条約と将軍継嗣問題を決着させ、反対派を処罰しました。その結果、幕府への反発は武力へ向かい、桜田門外の変が起きます。

幕府は公武合体によって朝廷との協力を示そうとしました。けれど政治の中心は、すでに江戸だけではなくなっていました。

次の舞台は京都です。

尊王攘夷を掲げる長州藩と志士たち。京都の治安を担う会津藩。独自の政治構想を持つ薩摩藩。そして、外国との通商に不安を抱く孝明天皇。

それぞれの思惑が交差し、京都政局は激しく動き始めます。

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