1869年、戊辰戦争が終わりました。
江戸幕府と旧幕府軍の抵抗は消え、新政府が日本を代表する政治勢力になります。しかし、日本はまだ一つの政府によって直接治められる国ではありませんでした。
各地には藩があり、藩主が土地と人民を治め、税を集め、家臣と軍隊を抱えています。新政府をつくった薩摩・長州・土佐・肥前も、それぞれ一つの藩でした。
外国に対抗できる国をつくるには、全国の税、軍隊、行政を政府へ集めなければなりません。そのため新政府は、自らを支えた藩まで廃止します。
第5編では、版籍奉還から廃藩置県までをたどり、日本が諸藩の連合から中央集権国家へ変わる過程と、その改革が武士へ与えた影響を見ていきます。
この編でわかること
| 問い | この記事でたどる答え |
|---|---|
| 戊辰戦争後も何が残っていたのか | 藩主による地方行政、税、軍隊、家臣団が残っていた |
| 版籍奉還で何を返したのか | 藩主が支配していた土地と人民を朝廷へ返した |
| なぜ版籍奉還だけでは不十分だったのか | 旧藩主が知藩事となり、藩の組織と支配が実質的に残ったため |
| なぜ廃藩置県を実行できたのか | 御親兵を準備し、旧藩主の身分を保障し、藩財政も政府が引き受けたため |
| 改革は武士に何をもたらしたのか | 藩という勤務先と、俸禄を支える基盤を失わせた |
第1章|戦争に勝っても、政府は全国を直接治めていない
新政府には薩摩・長州・土佐・肥前などの出身者が集まりました。しかし、地方では藩が従来の行政を続けています。
藩は独自に年貢を集め、藩士へ俸禄を払い、軍隊を持っていました。政府が全国共通の税制や軍制を定めても、藩の協力がなければ実行できません。
これは、江戸幕府が諸藩を従えていた仕組みと大きく変わらない部分を残していました。
外国と対等に交渉し、国防を整えるには、日本全体を代表して人と資金を動かせる政府が必要です。新政府は、藩主の支配権を朝廷へ集めようとしました。
第2章|版籍奉還――土地と人民を朝廷へ返す
1869年、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主が、土地と人民を朝廷へ返すと申し出ました。他の藩もこれに続きます。
「版」は領地、「籍」は領民を意味します。これが版籍奉還です。
関係人物: 木戸孝允/大久保利通/毛利敬親/島津忠義/山内容堂/鍋島直大
藩主が先祖から受け継いだ領地を自ら返したように見えます。しかし、背景には戊辰戦争に勝った新政府の政治力と、有力四藩が足並みをそろえた圧力がありました。
また、藩主が直ちに地位と収入をすべて失ったわけではありません。旧藩主は政府から知藩事に任命され、引き続き同じ地域を治めます。
急激な抵抗を避けながら、「土地と人民は藩主個人ではなく、朝廷・政府に属する」という原則を示した改革でした。
第3章|変わった名義、残った仕組み
版籍奉還によって、藩主は世襲の領主から政府任命の地方官へ変わりました。
しかし、知藩事の多くは旧藩主です。藩の役所、藩士、財政、軍隊も残りました。政府が命じても、地方の実務は旧藩の組織に頼る状態です。
| 版籍奉還で変わったもの | まだ残ったもの |
|---|---|
| 土地・人民の名義が朝廷へ移った | 藩という行政単位 |
| 藩主が知藩事になった | 旧藩主による実際の地方統治 |
| 政府が藩の上位に立つ原則 | 藩ごとの税・軍隊・家臣団 |
版籍奉還は中央集権への第一歩でした。けれど、国を一つの制度で動かすには、藩そのものをなくす必要があります。
第4章|なぜ薩摩や長州まで廃止するのか
薩摩藩と長州藩は新政府成立の中心でした。それでも藩を残せば、政府内の人物が国家より出身藩の都合を優先する可能性があります。
さらに多くの藩は財政難に苦しみ、藩士への俸禄を払い続けることも困難でした。政府の命令より藩の事情が優先されれば、全国共通の徴税や軍隊を整えられません。
新政府が本当に全国政府になるには、敵だった藩だけでなく、味方だった藩も同じように廃止しなければなりませんでした。
これは、維新を支えた人々が、自分たちの力の基盤まで手放す改革でした。
第5章|廃藩置県の前に、政府直属の兵を集める
藩を廃止すると命じても、強い藩が反対すれば内戦が再び起こる危険があります。
政府は1871年、薩摩・長州・土佐から兵を集め、御親兵として東京へ置きました。政府が直接動かせる軍事力を先に確保したのです。
大久保利通、木戸孝允らが改革を進め、西郷隆盛も軍事面で支えました。
政治理念だけでは、大規模な制度変更を実行できません。反対が起きた場合に備える力を整えたうえで、改革は決断されました。
第6章|廃藩置県――藩が一斉に消える
1871年7月14日、知藩事が東京へ集められ、廃藩置県が命じられました。
藩と知藩事は廃止され、代わりに府と県が置かれます。地方には政府が任命する府知事・県令が派遣されました。
関係人物: 大久保利通/木戸孝允/西郷隆盛/山県有朋
旧藩主は東京へ移り、華族として身分や生活を一定程度保障されます。藩の債務を政府が処理する方針も、財政難の藩にとっては負担から解放される面がありました。
政府直属軍、旧藩主への保障、藩財政の引き受け。軍事的な備えと政治的な配慮を組み合わせたため、大規模な反乱を起こさず実施できたのです。
第7章|日本は何ができる国になったのか
廃藩置県によって、政府は地方官を任命し、全国の税と軍事力を中央へ集める道を開きました。
その後、府県は統廃合されます。徴兵令、地租改正、学制など、全国共通の制度を実施する基盤も整いました。
| 藩があった時代 | 廃藩置県後に目指した仕組み |
|---|---|
| 藩主が地方を統治 | 政府任命の府知事・県令が統治 |
| 藩ごとに軍隊を保有 | 政府直属の全国軍を整備 |
| 藩ごとに年貢を徴収 | 全国共通の税制へ移行 |
| 藩士が藩主へ仕える | 官僚・軍人などが政府へ仕える |
日本は、諸藩の協力を集める政府から、府県を通して全国を直接動かす政府へ変わりました。
第8章|国家が一つになる一方、武士は居場所を失う
藩の廃止は、藩に仕えていた武士にとって勤務先の消滅でした。
新政府や府県の役人、軍人、警察官になれた人もいます。しかし、すべての旧藩士に新しい職が用意されたわけではありません。
藩士への俸禄は政府が引き継ぎましたが、大きな財政負担になります。その後、徴兵令によって軍事が武士だけの役割ではなくなり、秩禄処分で俸禄が失われ、廃刀令で刀を帯びる特権もなくなります。
中央集権国家の成立と士族の不満は、別々の出来事ではありません。同じ改革が生んだ二つの結果でした。
版籍奉還と廃藩置県の違い
| 比較 | 版籍奉還 | 廃藩置県 |
|---|---|---|
| 年 | 1869年 | 1871年 |
| 主な変更 | 土地と人民を朝廷へ返す | 藩そのものを廃止する |
| 旧藩主 | 知藩事として旧領を統治 | 東京へ移り地方統治から離れる |
| 藩の組織 | 残った | 府県へ置き換えられた |
| 歴史上の意味 | 中央集権の原則を示した | 中央政府による直接統治を実現した |
第5編で分かったこと
- 戊辰戦争後も、藩は税・軍隊・家臣団を持つ地方政府として残っていた
- 版籍奉還は土地と人民を朝廷へ返したが、旧藩主と藩の実務は残した
- 新政府が全国政府になるには、味方だった薩摩・長州などの藩も廃止する必要があった
- 政府は御親兵を準備し、旧藩主の身分保障や藩財政の処理を組み合わせた
- 廃藩置県によって政府任命の地方官が置かれ、中央集権国家の土台ができた
- 国家統一の改革は、旧藩士から勤務先と生活の基盤を奪う変化でもあった
まとめ|新政府は、自らを生んだ藩をなくして全国政府になった
明治政府は戊辰戦争に勝っただけでは、全国を直接治められませんでした。各地に藩が残り、税も軍隊も藩主のもとにあったからです。
版籍奉還は、土地と人民が朝廷・政府に属するという原則を示しました。しかし藩の実務は残ります。
そこで政府は御親兵を整えたうえで、廃藩置県を実行しました。敵味方を問わず藩を廃止し、府県を通して全国を治める仕組みへ変えたのです。
この改革によって、明治政府は初めて全国政府としての土台を持ちました。
一方、藩を失った武士たちは、仕事、収入、軍事上の役割を次々に失います。新しい国をつくった改革が、その担い手だった武士を古い身分へ変えていきました。
第6編では、明治六年政変、佐賀の乱、各地の士族反乱、西南戦争をたどり、なぜ維新を支えた武士が新政府と戦うことになったのかを見ていきます。

コメント