MENU
記事を探す

信長包囲網とは?天下統一目前に包囲された織田信長、その全貌をわかりやすく解説

当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

1568年に上洛を果たした織田信長は、天下統一へ向けて急速に勢力を拡大した。しかし、信長の台頭を恐れた周囲の大名・宗教勢力が次々と連携し、信長を四方から包囲する「信長包囲網のぶながほういもう」が形成された。本記事では、なぜ包囲網が生まれ、信長がどのように乗り越えたのか、その全貌をわかりやすく解説する。

目次

3行でわかる信長包囲網のぶながほういもう

足利義昭あしかがよしあきの呼びかけで、浅井あざい朝倉あさくら本願寺ほんがんじ・武田・上杉うえすぎなど多くの勢力が信長に対抗する包囲網を形成した。
② 包囲網は「第1次(1570〜73年)」と「第2次(1576〜82年)」の2段階にわたって展開した。
武田信玄たけだしんげんの死・義昭よしあきの追放などで第1次包囲網は崩壊し、信長は本能寺ほんのうじの変まで天下統一への歩みを続けた。


信長包囲網のぶながほういもうとは何か

項目内容
時期第1次:1570〜1573年(元亀争乱げんきそうらん)、第2次:1576〜1582年
主な参加勢力足利義昭あしかがよしあき浅井長政あざいながまさ朝倉義景あさくらよしかげ延暦寺えんりゃくじ石山本願寺いしやまほんがんじ顕如けんにょ)・武田信玄たけだしんげん上杉謙信うえすぎけんしん毛利輝元もうりてるもと
結果第1次:武田信玄たけだしんげんの死・義昭よしあき追放で崩壊(1573年)。第2次:本能寺ほんのうじの変(1582年)で事実上終結
資料A評価資料p.31に包囲網相関図・方面軍体制図あり

信長包囲網のぶながほういもう」とは、特定の1つの出来事ではなく、複数の勢力が信長に対抗するために連携した状況の総称だ。当時の足利将軍・足利義昭あしかがよしあきが各地の大名に「信長打倒」を呼びかける書状(御内書ごないしょ)を送り、これに応じた勢力が合従がっしょうして信長を取り囲んだ。


時代背景:なぜ信長は包囲されたのか

1568年、信長は足利義昭あしかがよしあきを奉じて上洛し、室町幕府の実権を握った。しかし両者の関係は次第に悪化し、義昭よしあきは信長への対抗心を強めていった。信長が守護や宗教勢力の旧来の特権を廃止・制限していく過程で、既成権力の多くが信長を脅威とみなすようになった。

特に宗教勢力(石山本願寺いしやまほんがんじ延暦寺えんりゃくじ・各地の一向一揆)は信長の政策に強く反発した。また、甲斐かい(現・山梨県)の武田信玄たけだしんげん越後えちご(現・新潟県)の上杉謙信うえすぎけんしんといった有力大名も、信長の急速な勢力拡大を警戒していた。


第1次信長包囲網のぶながほういもう(1570〜1573年・元亀争乱げんきそうらん

【始まり】浅井長政あざいながまさの裏切りと金ヶ崎の退き口かねがさきののきぐち(1570年)

1570年、越前えちぜん朝倉義景あさくらよしかげを攻めた信長は、義弟・浅井長政あざいながまさ(妻・お市の兄)が突然朝倉あさくら方につくという事態に直面した(金ヶ崎の退き口かねがさきののきぐち)。信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)らの殿軍しんがりぐんを頼りながら京へ逃げ帰り、一時は絶体絶命の危機に陥った。この浅井あざいの離反が、信長包囲網のぶながほういもう形成の大きな引き金となった(A評価資料・p.31)。

【形成】足利義昭あしかがよしあき御内書ごないしょと多方面からの攻勢(1570〜72年)

足利義昭あしかがよしあきは各地の大名に「信長討伐」を呼びかける書状(御内書ごないしょ)を送り始めた。これに応じた勢力が次々と信長への対抗姿勢をとった。

同年(1570年)の姉川の戦いで信長は浅井あざい朝倉あさくら連合軍を破ったものの、その後も両者は比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ)周辺に拠点を移して抵抗を続けた。信長は比叡山焼き討ちひえいざんやきうち(1571年)で延暦寺えんりゃくじを壊滅させ、包囲網の一角を崩した。

一方、甲斐かい武田信玄たけだしんげんも1572年に西上作戦せいじょうさくせんを開始し、徳川家康の領国・遠江とおとうみ(現・静岡県)に侵攻した。同年の三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかいで信長の同盟者・徳川家康を大敗させ、信長軍は京への道に最大の脅威を迎えることになった(A評価資料・p.31)。

【崩壊】武田信玄たけだしんげんの死と義昭よしあき追放(1573年)

1573年、武田信玄たけだしんげん西上作戦せいじょうさくせんの途中で病死した(諸説あり)。これにより第1次包囲網の最大の柱が失われた。信長はその隙に反撃し、同年に足利義昭あしかがよしあきを追放(室町幕府の事実上の終焉)、浅井長政あざいながまさ朝倉義景あさくらよしかげも相次いで滅亡させた。石山本願寺いしやまほんがんじとの抗争は続いたが、第1次包囲網は事実上崩壊した。


第2次信長包囲網のぶながほういもう(1576〜1582年)

毛利もうり本願寺ほんがんじ上杉うえすぎの連携】

第1次包囲網崩壊後、信長は安土城(1576年着工)を拠点に天下統一への歩みを進めた。しかし、中国地方の毛利輝元もうりてるもと大坂おおさか石山本願寺いしやまほんがんじ顕如けんにょ)・越後えちご上杉謙信うえすぎけんしんが連携して第2次包囲網を形成した(A評価資料・p.31)。

1576年の木津川口の戦いでは、毛利もうりの水軍が信長の水軍を破り、石山本願寺いしやまほんがんじへの兵糧輸送を確保した。信長は鉄甲船(鉄張りの大型船)を建造して1578年に毛利もうり水軍を撃破するなど反撃に転じた。

【包囲網の弱体化】上杉謙信うえすぎけんしんの死と石山合戦いしやまかっせん終結(1578〜80年)

1578年、上杉謙信うえすぎけんしんが急死(脳卒中とされる)。これにより包囲網の一角が崩れた。さらに1580年、石山本願寺いしやまほんがんじが信長と和睦して退去。10年以上続いた石山合戦いしやまかっせんが終結し、信長の近畿・中部支配がさらに安定した。

本能寺ほんのうじの変による終焉】(1582年)

1582年、信長は毛利輝元もうりてるもととの最終決戦に向けて準備を進めていた。しかし同年6月、本能寺ほんのうじの変で明智光秀に討たれ、信長包囲網のぶながほういもうは「内側から」の終焉を迎えた。信長を倒したのは、包囲網の外敵ではなく、自軍の家臣だったという歴史の皮肉が残った。


信長包囲網のぶながほういもうの主な構成勢力

勢力拠点第1次・第2次備考
足利義昭あしかがよしあき京・各地第1次御内書ごないしょで諸大名に連合を呼びかけた
浅井長政あざいながまさ北近江第1次1570年に信長から離反。1573年に滅亡
朝倉義景あさくらよしかげ越前えちぜん第1次浅井あざいと連合。1573年に滅亡
延暦寺えんりゃくじ比叡山ひえいざん第1次浅井あざい朝倉あさくらを庇護→1571年焼き討ちで壊滅
石山本願寺いしやまほんがんじ顕如けんにょ大坂おおさか第1次・第2次石山合戦いしやまかっせん(1570〜80年)で10年間抵抗
武田信玄たけだしんげん甲斐かい第1次西上作戦せいじょうさくせんで家康を大敗。1573年に病死
上杉謙信うえすぎけんしん越後えちご第2次毛利もうりと連携。1578年に急死
毛利輝元もうりてるもと中国地方第2次水軍で信長に対抗。本能寺ほんのうじの変まで抗争継続

関わった人物たち

足利義昭あしかがよしあき(1537〜1597年)

室町幕府15代将軍。信長の協力で将軍職についたが、次第に信長の傀儡扱いに反発するようになった。御内書ごないしょを送って包囲網を形成しようとしたが、1573年に信長に追放されて室町幕府は事実上滅亡した。その後も毛利輝元もうりてるもとのもとで命脈を保った。

武田信玄たけだしんげん(1521〜1573年)

「戦国最強」と称された甲斐かいの武将。1572年の西上作戦せいじょうさくせんでは三方ヶ原で徳川家康を大敗させ、信長の天下統一を最も脅かした存在だった。しかし1573年、西上作戦せいじょうさくせんの途中で病死(諸説あり)。その死が第1次包囲網崩壊の決定的な要因となった。

顕如けんにょ光佐こうさ(1543〜1592年)

石山本願寺いしやまほんがんじを率いた浄土真宗の宗主。信長包囲網のぶながほういもうに加わり、10年以上にわたって石山合戦いしやまかっせんを戦い抜いた。1580年に信長と和睦し石山本願寺いしやまほんがんじから退去したが(和睦の経緯については諸説あり)、その粘り強い抵抗は信長を大いに苦しめた(A評価資料・p.200)。


信長包囲網のぶながほういもうが変えたもの

① 信長の危機管理能力が鍛えられた
包囲網を生き延びたことで、信長は「方面軍体制」という各地に有能な武将(羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家・滝川一益)を派遣する統治システムを確立した(A評価資料・p.31)。これが後の豊臣政権の礎にもなった。

② 旧来の宗教的権威が失墜した
比叡山焼き討ちひえいざんやきうち(1571年)・石山合戦いしやまかっせんの終結(1580年)を通じて、宗教勢力が政治・軍事に対抗できないことが示された。「神仏の権威」が戦国大名の軍事力に勝てない時代の到来を象徴する出来事だった。

③ 戦国時代の「合従がっしょう連衡」の限界を示した
一時は多くの勢力が信長に対抗したが、各勢力は個別の利害を抱えており、持続的な連携は難しかった。信長はこの分断を巧みに利用して各個撃破した。


現代への学び

信長包囲網のぶながほういもうは、「変革者は既存の勢力から激しい抵抗を受ける」という普遍的な構図を示している。信長が行った楽市楽座・宗教勢力の制限・関所の廃止といった政策は、当時の既成権力にとっては脅威そのものだった。

それでも信長が包囲網を生き延びた背景には、①敵を各個撃破する判断力、②有能な家臣を各方面に展開する組織力、③武田信玄たけだしんげんの死など偶然の幸運、があった。変革を進めるには実力だけでなく、時代の流れを読む力と「運」が必要だということを、信長包囲網のぶながほういもうは教えてくれる。


もし信長包囲網のぶながほういもうが成功していたら?(歴史IF・考察)

以下はあくまでも「もし〜だったら」という仮説・考察であり、史実ではない。

もし武田信玄たけだしんげん西上作戦せいじょうさくせんを完遂していたなら、信長は甲斐かい・徳川方面で大きな損失を受け、包囲網から脱出できなかった可能性がある。その場合、天下統一は豊臣秀吉ではなく武田氏か、あるいは全く別の大名が成し遂げた可能性もある。

ただし包囲網の参加勢力はそれぞれ利害が異なっており、仮に信長を倒せたとしても、その後の天下を統一できたかどうかは別の問題だ。「信長を倒した後の主導権争い」が起きた可能性が高い。


信長包囲網のぶながほういもうの年表

出来事
1568年信長、足利義昭あしかがよしあきを奉じて上洛
1570年浅井長政あざいながまさが離反(金ヶ崎の退き口かねがさきののきぐち)。姉川の戦い
1570年石山合戦いしやまかっせん開始(〜1580年)
1571年比叡山焼き討ちひえいざんやきうち延暦寺えんりゃくじ壊滅
1572年武田信玄たけだしんげん西上作戦せいじょうさくせん開始。三方ヶ原の戦いみかたがはらのたたかいで家康を大敗させる
1573年武田信玄たけだしんげん病死→第1次包囲網崩壊。足利義昭あしかがよしあき追放・浅井あざい/朝倉あさくら滅亡
1574年〜長篠ながしのの戦い(1575年)。信長が武田軍を撃破
1576年安土城完成。第2次包囲網(毛利もうり上杉うえすぎ本願寺ほんがんじ)形成
1578年上杉謙信うえすぎけんしん急死。毛利もうり水軍撃破
1580年石山合戦いしやまかっせん終結。石山本願寺いしやまほんがんじが退去
1582年本能寺ほんのうじの変。信長、明智光秀に討たれる

まとめ

信長包囲網のぶながほういもうは、天下統一を目指す信長に対して多くの勢力が連携した2段階の包囲体制だ。第1次(1570〜73年)は武田信玄たけだしんげんの死によって崩壊し、第2次(1576〜82年)は本能寺ほんのうじの変という「内側からの終焉」を迎えた。

信長は包囲網を生き延びることで、方面軍体制という革新的な統治システムを確立し、後の豊臣秀吉による天下統一への道を整えた。信長包囲網のぶながほういもうを理解することは、戦国時代の政治・軍事・宗教の三つが複雑に絡み合う構造を理解することでもある。


参考資料

小和田哲男監修・かみゆ歴史編集部編『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』朝日新聞出版、2022年(p.31:信長包囲網のぶながほういもう相関図・方面軍体制図、p.200:元亀争乱げんきそうらん顕如けんにょ光佐こうさ、p.201:信長包囲網のぶながほういもうマップ)。
小和田哲男監修『地図でスッと頭に入る戦国時代』昭文社、2020年。


関連記事

織田信長|革命児が切り拓いた天下統一への道
比叡山焼き討ちひえいざんやきうちとは?信長が延暦寺えんりゃくじを焼き払った理由と影響
本能寺ほんのうじの変|なぜ明智光秀は信長を討ったのか
長篠ながしのの戦い
戦国時代の出来事一覧
戦国時代の人物一覧|気になる人物から読んでみよう

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次