MENU
記事を探す

今川義元とは?桶狭間で倒れた「海道一の弓取り」をわかりやすく解説

当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

今川義元いまがわよしもととは

今川義元いまがわよしもと(1519〜1560年)は、戦国時代に東海地方を支配した今川氏の第9代当主です。駿河するが遠江とおとうみ三河みかわの3カ国を治め、「海道一の弓取りかいどういちのゆみとり」とも称された戦国大名でした。
しかし1560年(永禄えいろく3年)、上洛の途上で織田信長に奇襲を受け、桶狭間の戦いおけはざまのたたかいで命を落とします。後の徳川家康(当時は松平元康まつだいらもとやす)を人質に置いていたことでも知られる存在です。

3行でわかる今川義元いまがわよしもと

基本プロフィール

生没年1519年(永正えいしょう16年)〜1560年(永禄えいろく3年)
本拠地駿府すんぷ(現・静岡市)
支配領国駿河するが遠江とおとうみ三河みかわ
今川氏親いまがわうじちか
主な出来事花倉の乱はなくらのらん(1536年)、甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい(1554年)、桶狭間の戦いおけはざまのたたかい(1560年)

家督相続と今川家の拡大

今川氏は、室町幕府を開いた足利氏の一族(清和源氏・足利氏庶流)にあたる名門です。駿河するが守護を基盤に、遠江とおとうみ三河みかわへ支配を広げた今川氏の家格は高く、義元よしもとの時代には室町将軍家に次ぐ格式を誇っていました。
今川義元いまがわよしもと今川氏親いまがわうじちかの三男として1519年に生まれ、幼少期には出家して栴岳承芳せんがくしょうほうと呼ばれていました。しかし1536年(天文てんぶん5年)、長兄・今川氏輝いまがわうじてるが急死したため、家督をめぐる争いが起きます。義元よしもとと異母兄弟の玄広恵探げんこうえたんが対立したこの争いを花倉の乱はなくらのらんといい、義元よしもとは高僧・太原崇孚たいげんそうふ(号・雪斎)の支持を得て勝利し、今川家当主の座に就きました。

当主となった義元よしもとは、父・氏親が制定した今川仮名目録いまがわかなもくろくを増補して領国の法秩序を整備しました。この分国法は戦国大名の領国法の早期の例として知られています。義元よしもと遠江とおとうみ三河みかわへと支配を広げ、1550年代には東海道最大の戦国大名となりました。

甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい(1554年)

1554年(天文てんぶん23年)、今川義元いまがわよしもと武田信玄たけだしんげん北条氏康ほうじょううじやすの3者は婚姻関係によって甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいを結びました。甲斐の武田・相模の北条・駿河するがの今川が互いの背後を固め合い、三方からの脅威を取り除くことが目的です。

この同盟によって義元よしもとは東の脅威を取り除き、尾張おわり(織田氏)との対決に集中できる体制を整えました。甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいは戦国時代の外交史において重要な同盟のひとつとして知られています。

桶狭間の戦いおけはざまのたたかい(1560年)と義元よしもとの死

1560年(永禄えいろく3年)5月、今川義元いまがわよしもとは大軍(2万〜2万5000ともいわれる)を率いて西進を開始します。その目的については上洛(京都を目指す)説と尾張おわり侵攻説があり、現在も議論が続いています。

今川軍が現在の愛知県(桶狭間おけはざま付近)に差し掛かった際、激しい雨の中で織田信長率いる兵が義元よしもとの本陣を急襲しました。これが桶狭間の戦いおけはざまのたたかいです。義元よしもとはこの奇襲によって討ち取られ、享年42歳で生涯を閉じました。

義元よしもとの死は今川氏の急速な衰退を招きます。義元よしもとのもとに人質として置かれていた松平元康まつだいらもとやす(後の徳川家康)は岡崎に戻り、今川氏から自立して独自の道を歩み始めました。
義元よしもとの後を継いだ嫡男・今川氏真いまがわうじざねは、武田信玄たけだしんげんによる駿河するが侵攻(1568年)などもあり今川氏の支配地をほぼ失います。義元よしもとの死が今川家の命運を大きく変えることになりました。

今川義元いまがわよしもとと文化——公家風の外見はなぜか

今川義元いまがわよしもとは連歌(れんが)を愛好し、駿府すんぷ(現・静岡市)に京都の公家文化を積極的に取り入れました。公家風にお歯黒をつけ、眉を剃り上げた外見が「公家かぶれ」として後世に語られることがありますが、これは主に江戸時代以降に作られたイメージです。

戦国時代、京都の公家文化を取り入れることは教養・権威の証とされていました。義元よしもとが京都文化を駿府すんぷに持ち込んだのは、今川家の格式を示す政治的な行為でもあったと考えられています。

今川義元いまがわよしもとの評価——近年の再評価

今川義元いまがわよしもとはしばしば「桶狭間おけはざまで無様に討ち取られた武将」として低く評価されてきました。しかし近年の研究では、義元よしもとを行政・法整備の優れた指導者として再評価する動きが強まっています。

義元よしもとが増補した今川仮名目録いまがわかなもくろくは戦国大名の分国法として先進的な内容を持ち、法制史的に高く評価されています。東海道の3カ国を安定支配した行政能力と甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいによる外交的手腕は、桶狭間おけはざまという最後の結末とは切り離して評価されるべきものです。若き日の徳川家康が義元よしもとのもとで多くを学んだことも、義元よしもとの指導者としての資質を示す根拠のひとつとされています。

年表

  • 1519年(永正えいしょう16年)——今川氏親いまがわうじちかの三男として誕生。幼少期に出家し、栴岳承芳せんがくしょうほうと号す
  • 1536年(天文てんぶん5年)——花倉の乱はなくらのらんで勝利し今川氏第9代当主となる(還俗・今川義元いまがわよしもと
  • 1554年(天文てんぶん23年)——甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい成立(武田信玄たけだしんげん北条氏康ほうじょううじやすと婚姻同盟)
  • 1560年(永禄えいろく3年)5月——大軍を率いて西進を開始
  • 1560年(永禄えいろく3年)5月19日——桶狭間の戦いおけはざまのたたかいで織田信長の奇襲を受け戦死(享年42)

まとめ

今川義元いまがわよしもとは「桶狭間おけはざまで倒れた大名」として記憶されがちですが、その実態は東海道の3カ国を治めた有能な戦国大名でした。甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいによる外交・今川仮名目録いまがわかなもくろくによる法整備・駿府すんぷへの文化的繁栄をもたらした治世は、近年の歴史研究において高く評価されています。若き徳川家康を育んだ今川氏の当主として、戦国時代の歴史における重要な位置を占める人物です。

参考資料

  • 小和田哲男『今川義元いまがわよしもと』(PHP研究所)
  • 黒田基樹編『今川義元いまがわよしもととその時代』(戎光祥出版)
  • 小和田哲男『戦国武将 敗者の言い訳』(PHP研究所)

関連記事

今川義元いまがわよしもとについてさらに理解を深めるために、以下の記事もご覧ください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次