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大政奉還と江戸幕府の消滅|政権を返したのになぜ戦争になったのか【明治維新・第3編】

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1867年10月、徳川慶喜は政権を朝廷へ返すと申し出ました。大政奉還たいせいほうかんです。

ところが、これで争いは終わりませんでした。約二か月後には王政復古おうせいふっこの大号令が出され、翌年には鳥羽・伏見とば・ふしみで新政府軍と旧幕府軍が衝突します。

なぜ、慶喜は自ら政権を返したのでしょうか。そして、政権を返したのに、なぜ戦争になったのでしょうか。

第3編では、第二次長州征伐後の幕府改革から大政奉還、王政復古、鳥羽・伏見の戦いまでをたどります。ここで終わったのは将軍職だけではありません。徳川家を中心に国を動かしてきた、江戸幕府という政治の仕組みでした。

この編でわかること

問いこの記事でたどる答え
徳川慶喜は何を立て直そうとしたのか軍制・行政を改革し、幕府を近代的な政府へ変えようとした
なぜ大政奉還を受け入れたのか武力倒幕の理由を失わせ、新体制でも徳川家の影響力を残すため
大政奉還で幕府は消えたのか政権返上は表明されたが、徳川家の領地・軍事力・官職は残った
王政復古で何が変わったのか幕府と将軍職を廃し、朝廷を中心とする新政府が宣言された
なぜ鳥羽・伏見で戦争になったのか新政府内での徳川家の扱いをめぐる対立が武力衝突へ進んだ

第1章|最後の将軍は、幕府を立て直そうとした

1866年、第二次長州征伐の最中に将軍徳川家茂が亡くなり、徳川慶喜が第15代将軍となりました。

慶喜は、ただ幕府の終わりを待っていたのではありません。フランス公使レオン・ロッシュらとの関係を生かし、軍制や行政の改革を進めます。幕府陸軍の装備と訓練を改め、統治機構を近代化しようとしました。

一方、薩摩藩と長州藩は連携を深めます。第二次長州征伐に失敗した幕府が諸藩をまとめる力には、すでに大きな疑問が生じていました。

幕府は弱っていました。しかし、徳川家は広大な領地、軍事力、外交経験を持つ国内最大級の勢力です。幕府が衰えたことと、徳川家が無力になったことは同じではありません。

第2章|倒幕か、政権返上か

薩摩藩と長州藩では、武力によって幕府を倒す動きが強まっていました。

これに対し、土佐藩の山内容堂は、内戦を避けるため政権を朝廷へ返す案を支持します。後藤象二郎らは坂本龍馬の構想も参考にしながら、慶喜へ大政奉還を勧めました。

新しい政治を諸侯の会議で進めるなら、徳川家は最大の大名として強い発言力を保てます。慶喜にとって大政奉還は、全面降伏ではありませんでした。

古い「幕府」という枠を手放し、武力倒幕の名目を失わせ、新体制の中心に残る。政権を返すことで徳川家を守ろうとする、政治的な一手だったと考えられます。

関係人物: 徳川慶喜/山内容堂/後藤象二郎/坂本龍馬

大政奉還を詳しく読む →

第3章|大政奉還――返された政権の受け皿がない

1867年10月、慶喜は朝廷へ政権返上を申し出ました。朝廷はこれを受け入れます。

しかし、朝廷には全国行政を直ちに担う十分な組織がありません。外交、財政、治安などの実務では、しばらく幕府側の力に頼らざるを得ませんでした。

さらに、徳川家の領地も軍隊も残っています。慶喜も将軍職をすぐには辞していません。

つまり大政奉還は、「政権を返す」という政治的意思を示した出来事です。それだけで幕府の組織と徳川家の力が消えたわけではありません。

ここに大きな問題が残りました。

新しい政府へ徳川慶喜を参加させるのか。それとも、徳川家の力を政治から取り除くのか。

第4章|王政復古――幕府という制度が廃止される

1867年12月9日、薩摩藩や岩倉具視いわくらともみらが主導し、王政復古の大号令が発せられました。

将軍職と幕府が廃止され、摂政・関白など従来の朝廷制度も改められます。そして総裁・議定・参与からなる新政府が置かれました。

関係人物: 岩倉具視/西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみち/徳川慶喜

王政復古の大号令を詳しく読む →

大政奉還が慶喜による政権返上なら、王政復古は新政府側による政治制度の組み替えです。

ここで江戸幕府は、政治制度として廃止されました。しかし徳川家の現実の力をどうするかは、まだ決まっていませんでした。

第5章|小御所会議――徳川家を新政府から外すのか

王政復古当日の夜、小御所会議が開かれました。

議題となったのは、徳川慶喜に官職を辞めさせ、領地の一部を朝廷へ返させる辞官納地じかんのうちです。慶喜を新政府へ参加させる前に、徳川家の巨大な力を減らそうとする考えでした。

山内容堂は、慶喜を除いて政治を進めることに反対します。一方、岩倉具視や大久保利通らは、新政府の主導権を確立するには徳川家の力を抑える必要があると考えました。

会議は新政府内の意見が最初から一枚岩ではなかったことを示しています。王政復古が宣言されても、新しい国の形は交渉の途中だったのです。

慶喜はいったん大坂城へ退き、恭順きょうじゅんの姿勢を示しながら諸外国の公使とも会います。旧幕府側には、新政府の強硬な処分への反発が高まりました。

第6章|江戸での挑発と大坂の緊張

薩摩藩は江戸市中で旧幕府側を刺激する活動に関わり、旧幕府側は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしました。

大坂城に集まった旧幕府兵や会津・桑名藩兵の間では、薩摩を討つべきだという声が強まります。慶喜は朝廷へ訴えるためとして軍を京都方面へ進めました。

しかし、新政府側から見れば、武装した大軍が京都へ向かってくることになります。

政治交渉と軍事的圧力の境界が崩れ、双方が相手の行動を脅威と受け取りました。

第7章|鳥羽・伏見の戦い――旧幕府軍はなぜ敗れたのか

1868年1月、京都南郊の鳥羽・伏見で戦闘が始まりました。

旧幕府軍は兵数で新政府軍を上回っていました。それでも、部隊ごとに指揮や目的が統一されず、新政府軍の装備や陣地を生かした戦いに押されます。

さらに朝廷から錦の御旗にしきのみはたが新政府軍へ与えられました。これにより、新政府軍は「官軍」、旧幕府軍は朝廷に逆らう「賊軍」と見なされる政治的状況が生まれます。

諸藩の態度は大きく揺れ、旧幕府軍は敗退しました。

関係人物: 徳川慶喜/西郷隆盛/大久保利通/松平容保

鳥羽・伏見の戦いを詳しく読む →

第8章|慶喜はなぜ大坂から江戸へ戻ったのか

敗戦後、慶喜は会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らと軍艦で大坂を離れ、江戸へ戻りました。

慶喜が戦場を離れた理由を、単純な臆病さだけで説明することはできません。戦いを続ければ朝廷への反逆が決定的になり、諸外国の介入や国内の長期戦を招く危険がありました。

しかし、指導者が去ったことで旧幕府軍の戦意と統率は崩れます。慶喜は江戸で恭順し、新政府軍は東へ進み始めました。

政治制度としての幕府は王政復古で廃止され、旧幕府が政権を取り戻す可能性は鳥羽・伏見の敗北で大きく失われました。

江戸幕府は、どの段階で終わったのか

段階失われたもの
大政奉還将軍が政権を担うという政治上の根拠
王政復古幕府・将軍職という政治制度
小御所会議徳川家が新政府へ従来の力のまま参加する可能性
鳥羽・伏見の戦い旧幕府側の軍事的主導権と政治的正統性
戊辰戦争ぼしんせんそう旧幕府勢力が政権を取り戻す軍事的可能性

幕府の消滅は、一日の出来事ではありません。

政権を返し、制度が廃止され、戦いに敗れ、旧幕府勢力の抵抗が終わる。政治と軍事の両面で、段階的に確定していったのです。

第3編で分かったこと

  • 徳川慶喜は軍制・行政改革を進め、幕府を立て直そうとした
  • 大政奉還は全面降伏ではなく、新体制でも徳川家の影響力を残す構想だった
  • 大政奉還後も、徳川家の領地・軍事力と全国行政の実務は残った
  • 王政復古によって幕府と将軍職が廃止され、新政府が宣言された
  • 徳川家の扱いをめぐる交渉がまとまらず、鳥羽・伏見の戦いへ進んだ
  • 旧幕府軍の敗北により、新政府軍が政治的・軍事的な主導権を握った

まとめ|政権を返しただけでは、権力の移動は終わらなかった

徳川慶喜は、倒幕の動きに対して大政奉還という政治的な手を打ちました。幕府という枠を手放しても、徳川家の力を新体制に残そうとしたのです。

しかし薩摩・長州や岩倉具視らは、徳川家を中心としない政府を目指しました。王政復古で幕府を廃止し、辞官納地を求めます。

大政奉還は政権返上の宣言でした。王政復古は制度の廃止でした。そして鳥羽・伏見の戦いは、政治交渉で決まらなかった力関係を軍事面で決める戦いになりました。

それでも、江戸にも東北にも、徳川家や会津藩へ忠義を持つ人々が残っています。

第4編では、江戸無血開城から上野、北越、会津、箱館までをたどり、なぜ幕府がなくなったあとも戊辰戦争が続いたのかを見ていきます。

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