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辛亥革命と日本の対応とは?孫文を支えた日本人たちと、割れた政界の意見

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1911年(明治44年)10月。
清の武昌で、一人の軍人の蜂起がきっかけとなり、
各地に反乱が広がりました。

この年の干支が「辛亥」であったことから、
のちに辛亥革命と呼ばれる出来事です。

この革命の背後には、
日本に亡命し、日本人に支えられていた革命家たちの存在がありました。

目次

孫文と中国革命同盟会

日清戦争後、清から日本への留学生が増加します。
日本や西洋諸国の影響を受けた清の知識人の間では、
改革にとどまらず、清の打倒をめざす革命運動が盛り上がっていきました。

その代表的な人物が、孫文そんぶんです。

孫文は1894年、ハワイで興中会という組織を結成。
その後、日本を拠点に活動する革命家たちが各地から合流し、
1905年(明治38年)、東京で中国革命同盟会が結成されます。

満洲族である清の皇帝一族を打倒し、
漢民族を中心とした新しい政治体制をつくる。
それが、彼らの目標でした。

孫文を支えた日本人たち

孫文とその同志たちは、日本を活動拠点としていました。
その活動を、民間の立場から支えた日本人が数多くいます。

  • 犬養毅いぬかいつよし:憲政本党に属した政治家(のちに昭和初期に首相就任)
  • 頭山満とうやまみつる:青年期に自由民権運動に参加し、アジア各国の連帯を主張
  • 宮崎滔天みやざきとうてん:貿易商・映画製作者として国内外に広い人脈を持つ

彼らは、孫文らに資金や武器の調達で協力しました。
他方、日本政府は清との外交関係や利権が絡むため、
革命運動とは距離を置く立場をとっていました。

辛亥革命と中華民国の樹立

1911年10月の武昌蜂起をきっかけに、
湖北省をはじめ13の省が、清からの独立を宣言しました。

アメリカに滞在していた孫文は急いで帰国し、
革命勢力内の選挙によって臨時大総統に選出されます。

そして1912年(明治45年)1月、南京で「中華民国」の樹立が宣言されました。

ただし、建国宣言の段階での中華民国の勢力範囲は南部が中心で、
清の都・北京を含む北部は、なお清の支配下にありました。

宣統帝の退位と清の滅亡

当時の皇帝・宣統帝せんとうてい(溥儀)はわずか6歳。
実際に政治と軍の実権を握っていたのは、
李鴻章から北洋軍を引き継いだ袁世凱えんせいがいでした。

孫文は、共和政国家の大総統の座を袁世凱に譲ることと引きかえに、
宣統帝の退位を実現させます。

こうして、163年続いた清は滅亡しました。

日本国内で割れた対応

辛亥革命への対応をめぐり、日本の政界でも意見が分かれました。

本書によれば、山県有朋ら一部の陸軍幹部は、
当初は清政府を支持する立場でしたが、
清朝が滅亡すると、対応を転換していったとされます
日本政界内の対応の変化については、本書の記述に基づく概要であり、政府・軍・民間の立場を分けて見る必要があります。

革命という大きな変化を前に、
清を支援するのか、新しい中国を支援するのか。
日本もまた、その選択を迫られていました。

ひこまるとやたまるで理解するポイント

ひこまる

日本は辛亥革命を一つの方針で支えたの?

やたまる

そうではないんじゃ。孫文を支える民間人がいる一方で、政府や軍の内部にも異なる考えがあり、対応は揺れていたんじゃよ。

ひこまる

日本人が孫文を支えたのは、なぜだったの?

やたまる

中国の改革に共感した者、アジアの連帯を重んじた者など動機はさまざまじゃ。一つの理由だけでは説明できぬところが大切じゃな。

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出典:大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、247〜250頁。

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