1911年(明治44年)1月。
判決からわずか1週間ほどで、12人が死刑を執行されました。
そのなかには、ジャーナリストの幸徳秋水もいました。
大逆事件と呼ばれるこの出来事は、
のちに、その多くが冤罪だったのではないかと指摘されることになります。
幸徳秋水とはどんな人物か
幸徳秋水は、新聞『萬朝報』の記者でした。
日露戦争が近づくなか、『萬朝報』が開戦を支持する方針をとると、
幸徳は堺利彦らとともに独立して平民社を結成します。
そして『平民新聞』を発行し、反戦論を唱えました。
政府や国民から幸徳らを非難する声は少なくありませんでしたが、
それを理由に発行が禁じられることはありませんでした。
社会主義運動の広がりと弾圧
産業が発展する一方で、苦しい生活を送る労働者や農民の間には、
社会主義思想が広まっていきました。
- 1901年:労働運動家の片山潜、幸徳秋水らが日本初の社会主義政党「社会民主党」を結成するが、政府により即日解散させられる
- 1901年以降:西園寺公望内閣は社会主義をある程度許容する方針をとり、幸徳らが結成した日本社会党の活動を認める
- 1908年:赤旗事件(荒畑寒村・大杉栄らと警官隊の衝突)をきっかけに西園寺内閣が総辞職し、第二次桂内閣が成立
幸徳自身は、渡米して海外の革命家と交流するなかで、
議会を通じた改革よりも直接行動を重視する無政府主義へと傾いていきました。
大逆事件とは何か
1910年(明治43年)5月。
幸徳と親交のあった職工の宮下太吉、元新聞記者の管野スガ(須賀子)らが、
小型の爆弾を製造し、明治天皇の暗殺を計画します。
この計画は実行前に発覚し、未遂に終わりました。
しかし当時の刑法では、天皇・皇族に危害を加える行為は「大逆罪」という重罪であり、
未遂であっても死刑が適用されました。
幸徳は、宮下から大まかな相談を受けただけで、計画にほとんど関与していませんでした。
それでも政府は、社会主義者の間で強い影響力を持っていた幸徳を主犯とみなします。
幸徳と親交のあった人物が次々と逮捕され、26人が起訴されました。
しかし、事件への関与を示す証拠は不十分なままでした。
裁判は非公開のうえ、一審のみで判決が下されます。
1911年1月、幸徳、管野ら12人が死刑となり、判決からわずか1週間ほどで刑が執行されました。
冤罪の疑いと、社会への影響
作家の徳富蘆花は、天皇を害することには反対しつつも、
幸徳らの死刑は不当だとする講演を行いました。
歌人の石川啄木も、事件について詳細に調べ、幸徳らに同情を寄せる短歌を残しています。
弁護士の平出修を通じて事件の詳細な調査が進むと、
社会主義を敵視していた山県有朋らによる裁判への介入や、拷問による自白の強要などがあったことがわかってきました。
本書は、こうした経緯から、逮捕者の大部分は冤罪だったとしています
事件の実態や個々の関与の程度には議論があり、本書の記述だけで一律に判断することはできません。
大逆事件は、社会主義運動を大きく後退させただけでなく、
歴史教科書の南北朝時代の記述(南北朝正閏論)にまで影響を及ぼす、
明治末期を象徴する事件となりました。
ひこまるとやたまるで理解するポイント
ひこまる大逆事件では、逮捕された人全員が同じ計画に関わっていたの?



そのようには考えられておらぬ。関与の程度には大きな差があり、後の研究では多くの被告について冤罪が指摘されているんじゃ。



この事件は、その後の社会に何を残したの?



社会主義者だけでなく、政府に批判的な言論まで萎縮させたんじゃ。裁判と国家権力の関係を考える重要な事件でもあるぞ。
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出典:大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、230頁、236〜239頁。



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