1900年、中国北部で「外国勢力を追い払え」と訴える義和団の運動が広がりました。北京では外国公使館区域が包囲され、清政府も列国へ宣戦を布告します。日本を含む8カ国は連合軍を送り、北京を占領しました。
しかし、これは「排外的な集団を列国が鎮圧した」という一文では理解できません。外国による中国分割への反発、キリスト教をめぐる地域対立、清政府内の対立、列国軍の軍事介入と暴力が重なった出来事です。
この2ページでは、義和団がなぜ広がったのか、清政府はなぜ支持へ傾いたのか、日本が最大規模の兵力を出した理由、北京議定書と日露戦争への影響を時系列で整理します。
義和団事件をひとことで表すと
義和団事件とは、外国勢力とキリスト教への反発を掲げる義和団が中国北部で勢力を広げ、清政府と列国の戦争に発展した1900年前後の出来事です。
義和団の活動を指して「義和団事件」「義和団の乱」と呼び、清軍と8カ国連合軍の戦争までを含む日本側の呼称として「北清事変」が使われます。現在では一連の出来事をまとめて義和団事件と呼ぶ場合も多くあります。
なぜ義和団の運動が広がったのか
帝国主義の時代、列強は清に港・鉄道・鉱山・租借地などの権益を認めさせました。宣教師と中国人キリスト教徒は条約による保護を受け、地域の裁判や土地問題に関わることもありました。こうした状況は、外国勢力が自分たちの生活と秩序を壊しているという反感を生みます。
19世紀末の山東省や直隷省では、洪水や干ばつ、貧困、失業も人々を苦しめていました。鉄道や輸入品による仕事の変化、教会と地域社会の争いも重なり、外国人・宣教師・中国人キリスト教徒に対する攻撃が拡大します。
義和団とは、どのような集団だったのか
義和団は、武術や宗教的な儀礼を行う複数の民衆集団から成長しました。厳密に統一された一つの組織というより、地域ごとの集団が結びついた運動です。
掲げた言葉が「扶清滅洋」でした。「清を助け、外国勢力を滅ぼす」という意味です。義和団の一部は、儀礼と修練によって銃弾を受けても傷つかないと信じ、近代兵器を持つ列国軍へ向かいました。
清政府は、なぜ義和団を支持したのか
清政府は当初、義和団を取り締まろうとしました。しかし、宮廷内では対応が割れ、実権を握る西太后の周囲で義和団の力を利用して列強へ対抗しようとする意見が強まります。運動が北京へ迫ると、政府は弾圧から容認へ傾きました。
ただし、清全体が同じ方針を取ったわけではありません。李鴻章、張之洞、劉坤一、袁世凱ら南部・東南部の有力官僚は、朝廷の宣戦命令に全面的には従わず、列国との戦争を地域へ広げない「東南互保」を進めました。
義和団事件は、「中国対外国」という単純な戦争ではありません。清政府内部、地方官、義和団、キリスト教徒、列国が異なる判断で動いた複雑な争乱でした。
北京の公使館区域は、なぜ包囲されたのか
公使館区域には外交官だけでなく、その家族、外国人住民、中国人キリスト教徒なども避難していました。包囲は8月14日に連合軍が北京へ到達するまで続きます。
なぜ日本は大軍を派遣したのか
イギリス、ロシア、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の8カ国が軍を送りました。このうち、日本は中国に近く、短期間でまとまった陸軍を送れる位置にありました。
7月6日、第二次山縣有朋内閣は第5師団の派遣を決定しました。アジア歴史資料センターの記録では、8月5日に北京へ向かった連合軍1万8074人のうち、日本軍は8820人です。約半数を占め、参加国中で最大規模でした。
書籍『一冊でわかる明治時代』は、事変を通じた日本の派兵を約2万2000人、連合軍の約3分の2と説明しています。ただし、集計する時点と範囲によって数字が変わるため、本記事では北京進軍時の人数が明記された公的記録を基準にします。

コメント