北京占領|8カ国連合軍は何をしたのか
8カ国連合軍は天津から北京へ進み、1900年8月14日に公使館区域へ到達しました。翌15日未明、西太后と光緒帝は北京を脱出し、清の宮廷は西安へ移ります。
公使館に籠城していた人々は救出されましたが、北京占領後には列国軍による略奪、処刑、民間人への暴力が起きました。義和団と清軍の暴力だけでなく、鎮圧した側が中国社会へ与えた被害も見る必要があります。
日本軍は「規律正しかった」のか
日本軍は他国軍と比べて規律を保ったとして、当時の列国から一定の評価を受けました。日本兵が清の外交文書を保護した記録もあります。この活動が、イギリスをはじめ列国の日本に対する評価を高めたことは確かです。
一方、日本軍も銀や釣鐘などを戦利品として持ち帰っています。「日本軍だけは完全に略奪をしなかった」と美化することはできません。高い評価があった事実と、軍事占領に伴う加害を分けずに語らないことが大切です。
北京議定書とは|清が受け入れた条件
1901年9月7日、清は日本・イギリス・ロシアなど8カ国に、ベルギー・オランダ・スペインを加えた11カ国との間で北京議定書を結びました。「辛丑和約」とも呼ばれます。
賠償金の元金だけで4億5000万両に達し、日清戦争の賠償金2億両を大きく上回りました。日本への配分は約3500万両で、全体のおよそ8%です。
北京議定書は清をどう変えたのか
巨額の賠償金は清の財政を圧迫し、列国軍の駐留は主権を大きく制限しました。清政府が外国勢力から国を守れず、重い条件を受け入れたことは、王朝への信頼も揺るがします。
危機を受け、清政府は軍制・教育・官制などを改める「光緒新政」を進めました。しかし、改革の費用と社会の不満は増え、1911年の辛亥革命と清朝の滅亡へ向かう背景の一つになります。
なぜ義和団事件が日英同盟へつながったのか
日本が大規模な兵力を迅速に送り、共同作戦を担ったことは、イギリスに日本の軍事力と協力相手としての価値を印象づけました。ロシアの東アジア進出を警戒する点でも、両国の利害は近づいていました。
これが1902年の日英同盟を結ぶ土台の一つになります。ただし、同盟は義和団事件だけで成立したわけではありません。イギリスの「光栄ある孤立」の見直し、ボーア戦争、ロシアの満洲・朝鮮進出、日本の外交的孤立への不安が重なった結果です。
ロシア軍は、なぜ満洲に残ったのか
義和団事件に乗じて、ロシアは満洲へ大軍を送りました。事件後、他国が兵力を縮小するなかでも、ロシア軍は満洲からの撤兵を完全には実行せず、鉄道と地域の支配を強めます。
日本は、ロシアが満洲から韓国へさらに進出することを警戒しました。撤兵問題、韓国をめぐる利害、日露交渉の行き詰まりが重なり、1904年の日露戦争へつながります。義和団事件は直接の原因一つではありませんが、日露対立を急速に深めた転機でした。
立場を変えると、事件はどう見えるのか
義和団事件の歴史上の意味
義和団事件は、列強の中国進出に対する民衆の反発が、清政府と列国の戦争へ広がった出来事でした。鎮圧後、清は巨額の賠償金と外国軍の駐留を受け入れ、主権と財政をさらに制限されます。
日本にとっては、列強と共同で中国へ出兵し、東アジアの国際政治で存在感を高めた転換点です。その一方、日本も賠償金と駐兵権を得て、中国へ軍事的に関与する列強の一員になりました。日英同盟と日露戦争への接続だけでなく、日本の帝国化という流れのなかで見る必要があります。
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参考資料
- 大石学監修『世界のなかの日本の歴史 一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2024年、200〜207頁
- アジア歴史資料センター「北清事変(義和団戦争)」
- アジア歴史資料センター「清国臨時派遣隊(義和団事件)」
- アジア歴史資料センター「北京議定書」
- 外務省外交史料館「外交史料 Q&A 明治期——義和団事変賠償金」
- 国立公文書館「日露戦争——北清事変への派兵」

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