治安維持法は、1925年に制定された法律です。
制定時の第1条は、「国体」の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社を組織することや、その事情を知って加入することなどを処罰対象にしました。
当初の最高刑は懲役または禁錮10年でした。1928年の改正では国体変革を目的とする行為の最高刑に死刑が加えられ、1941年の全面改正では対象行為と捜査・裁判手続がさらに広がり、予防拘禁も導入されます。
法律は共産党への取締りを主な目的として始まりましたが、運用の対象は労働・農民運動、研究者、宗教者、植民地の独立運動などへ広がりました。
1945年、日本の敗戦後にGHQが人権を侵害する法令の廃止を指示し、治安維持法は10月15日に廃止されました。
このページでは、1925年法が何を定め、改正によって何が変わり、思想統制の仕組みとしてどのように使われたのかを整理します。
治安維持法は、どのように強化されたのか
1925年の結社取締りから、1928年の重罰化、1941年の対象・手続拡大へ進みました。
国体変革・私有財産制度否認を目的とする結社の組織・加入などを処罰しました。
国体変革を目的とする組織者・指導者などへの最高刑に死刑を加えました。
対象行為と刑事手続を拡大し、刑期後も拘禁できる予防拘禁を設けました。
1925年の治安維持法は何を定めたのか
1925年法が直接取り締まった中心は、国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社でした。
そのような結社を組織した人、事情を知って加入した人、目的の実行に関わる協議をした人、資金を提供した人などが処罰対象とされました。
制定時の条文は「思想を持つこと」だけを犯罪として明記したものではありません。
しかし「国体」という言葉の意味は法律に詳しく定義されず、何が国体変革の目的やその実行行為に当たるかは、警察・検察・裁判所の解釈に大きく左右されました。
組織への加入、会合、資金、宣伝などを通じて思想と政治活動を広く捜査できる仕組みになり、後の改正と運用によって対象が拡大します。
なぜ治安維持法が制定されたのか
ロシア革命と共産主義運動への警戒
1917年のロシア革命後、各国で共産党が結成され、1919年にはコミンテルンが成立しました。
日本でも1922年ごろ、日本共産党が秘密組織として結成されます。1923年には一斉検挙が行われましたが、政府は既存の治安警察法などでは国際的な共産主義運動へ十分に対応できないと考えました。
1925年の日ソ基本条約によってソビエト連邦との国交が成立することも、国内での共産主義運動を警戒する議論につながりました。
普通選挙による政治参加の拡大
同じ1925年、納税要件を撤廃して25歳以上の男性へ選挙権を広げる普通選挙法が成立しました。
有権者が大幅に増えれば、労働者・農民を基盤とする政党や社会運動も議会へ進出する可能性があります。
政府や枢密院には、政治参加を広げる一方、国家体制の根本的変革を掲げる運動を制限する必要があるという判断がありました。
普通選挙法と治安維持法は同じ議会期に審議されましたが、一方がもう一方と法的に交換された制度ではありません。
政治参加の拡大と、その範囲を区切る思想統制が同時に進んだ点に、当時の政治の特徴があります。
従来の取締法制の延長
明治政府は、讒謗律、新聞紙条例、集会条例、保安条例、治安警察法などによって、言論・集会・結社・社会運動を取り締まってきました。
治安維持法は、明治以来の取締法制に、共産主義運動を対象とする新しい法律を加えたものです。
制定から廃止まで、何が変わったのか
制定・重罰化・全面改正・廃止
治安維持法が公布され、国体変革・私有財産制度否認を目的とする結社などを処罰対象にしました。
緊急勅令による改正で、国体変革を目的とする組織者・指導者などへの最高刑に死刑が加わりました。
法律を全面改正し、対象行為、捜査・裁判手続、予防拘禁を一つの法律に組み込みました。
GHQの人権指令を受け、治安維持法は廃止されました。
1928年改正で何が変わったのか
1928年2月、男子普通選挙による最初の衆議院議員総選挙が行われました。無産政党の候補者も議席を得ます。
翌3月15日、政府は日本共産党の党員と関係者を全国で一斉に検挙しました。三・一五事件です。
同年6月、政府は緊急勅令によって治安維持法を改正します。
国体変革を目的とする結社の組織者・指導者などへの刑罰は、死刑または無期・有期の懲役・禁錮へ引き上げられました。目的遂行のための行為を処罰する規定も加えられます。
帝国議会で法律案として成立しなかった改正を、議会閉会後の緊急勅令で実施した点も重要です。
この改正で、政府は共産党の組織だけでなく、その目的に協力したと判断した活動へ取締りを広げやすくなりました。
1941年改正と予防拘禁とは何か
1941年、治安維持法は全面改正されました。
改正法は、処罰対象を定める章に加えて、通常の刑事手続とは異なる特別な捜査・裁判手続と、予防拘禁の章を設けました。
予防拘禁は、刑の執行を終えた人であっても、再び違反するおそれがあると判断された場合に拘禁を続けられる制度です。
予防拘禁では、将来再び違反するおそれがあるという判断によって自由を奪うことが可能になりました。
全面改正は、党の中心組織だけを追う取締りから、支援者、研究会、周辺団体、宗教活動などを含む広い監視へ進んだことを法制度の面から支えました。
誰が、どのように取り締まったのか
治安維持法の運用では、特別高等警察、通称「特高」と、思想事件を担当する検察が大きな役割を担いました。
警察は組織の構成員、会合、出版物、資金、交友関係を調べ、検挙した人から組織全体をたどりました。
取調べでは長期拘禁や暴力が問題となり、獄中で死亡した人もいます。思想や政治活動をやめ、国家体制を受け入れるよう求める「転向」政策も進められました。
取締対象は日本共産党員を中心に、労働・農民運動の参加者、研究者、学生、宗教者、植民地の独立運動家などへ広がりました。
法律の条文だけでなく、警察・検察・裁判所・刑務所・保護観察をつないだ運用全体が、思想統制の仕組みをつくりました。
なぜ1945年に廃止されたのか
1945年8月、日本は敗戦しました。
10月、GHQは政治的・宗教的・市民的自由への制限を撤廃し、治安維持法など人権を侵害する法令を廃止するよう日本政府へ指示しました。
治安維持法は10月15日に廃止され、政治犯が釈放されます。
戦後の日本国憲法は、思想・良心、信教、集会・結社・表現、学問の自由を基本的人権として保障しました。
治安維持法の経験は、国家が曖昧な概念によって政治活動を制限し、取締対象を広げる危険を考える重要な材料になりました。
まとめ|治安維持法は、改正と運用で対象を広げた
治安維持法は1925年、国体変革または私有財産制度否認を目的とする結社などを取り締まるために制定されました。
制定時の最高刑は10年でしたが、1928年改正で国体変革を目的とする組織者・指導者などへの最高刑に死刑が加えられます。
1941年の全面改正では、対象行為と特別な刑事手続が広がり、予防拘禁も導入されました。
取締りは共産党員から周辺の社会運動、研究、宗教、植民地の独立運動へ広がり、警察・検察・司法を通じた思想統制の仕組みになりました。
1945年の廃止までを通して見ると、治安維持法が改正と運用の積み重ねによって強化された過程が分かります。
参考資料・参考図書
- 国立公文書館「治安維持法が制定される」
- 国立国会図書館「男子普通選挙法の成立と治安維持法」
- 国立公文書館「男子普通選挙」学習コンテンツ
- 日本法令索引「治安維持法 昭和16年法律第54号」
- 帝国議会会議録「治安維持法改正法律案委員会」
- 国立公文書館「治安維持法の廃止」

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