日本共産党は、第一次世界大戦後に社会主義・共産主義思想と労働運動が広がる中で、1922年ごろに組織されました。
党自身は1922年7月15日を創立日としています。ただし、活動が地下で行われ、当時の記録が限られるため、初期組織の成立時期や実態には研究上の論点があります。
結成には、堺利彦、山川均、近藤栄蔵、高津正道らが関わりました。ロシア革命後に各国の共産党を結んだコミンテルンの働きかけと支援も大きな影響を与えています。
党は公認された政党として選挙へ参加できず、秘密組織として活動しました。1923年には一斉検挙を受け、1924年に最初の組織が解党します。その後、1926年に再建されました。
このページでは、日本共産党がどのような社会状況から生まれ、なぜ非合法組織として出発し、治安維持法による弾圧の中心対象になったのかを整理します。
日本共産党の結成は、何を示したのか
普通選挙を求める運動が広がる一方、国家体制の根本的な変革を目指す政治運動には公然活動の道が閉ざされていたことを示します。
戦後不況と格差の中で、労働者・農民の組織化と社会主義思想が広がりました。
ロシア革命とコミンテルンが、日本の社会主義者の組織化へ影響しました。
公然の政党活動が認められず、検挙、解党、再建を繰り返しました。
結成前の日本社会では何が起きていたのか
明治期の社会主義運動は強く弾圧された
日本では明治時代から、資本主義の発展に伴う貧困や労働問題を批判し、社会主義を紹介する人々が活動していました。
堺利彦や幸徳秋水らは平民社をつくり、日露戦争に反対する論陣を張りました。しかし新聞の発行停止、集会の制限、社会主義者の逮捕が続きます。
1910年の大逆事件後には、社会主義運動全体が厳しい監視下に置かれました。
この時期は、社会主義者が公然と組織を広げにくい「冬の時代」と呼ばれます。
第一次世界大戦後に労働・農民運動が拡大した
第一次世界大戦中、日本では工業化と都市化が進みました。
物価が上がる一方、労働条件は厳しく、ストライキや労働組合の組織化が広がります。1918年の米騒動は、生活への不満が全国規模の行動へ発展することを示しました。
農村でも小作料や生活条件をめぐる争議が増えました。
労働者や農民の要求を、個別の賃金・小作問題から社会制度全体の問題として考える動きが強まります。
ロシア革命とコミンテルンが影響した
1917年のロシア革命で、社会主義を掲げる政権が成立しました。
1919年には、各国の共産党と革命運動を結ぶ第三インターナショナル、通称コミンテルンが設立されます。
コミンテルンは日本にも活動家を送り、共産党の組織化を働きかけました。日本の社会主義者は、議会を通じた改革、労働運動の強化、革命政党の結成など、進むべき道を議論します。
日本共産党は、国内の社会運動と国際的な共産主義運動が接続する中で生まれました。
日本共産党はいつ、誰が結成したのか
日本共産党は1922年7月15日を創立日としています。
結成に関わった人物として、堺利彦、山川均、近藤栄蔵、高津正道、荒畑寒村らが挙げられます。堺は初代委員長になったとされています。
ただし、地下組織だったため、公開された創立大会の議事録や政府への政党届出はありません。
国立国会図書館が紹介するコミンテルン文書でも、設立時期には1921年説と1922年説があるとされています。創立日の確定と初期組織の実態は、党の公式史、参加者の回想、警察資料、コミンテルン文書を照合して考える必要があります。
この不確かさ自体が、公然活動を許されなかった組織の特徴を表しています。
初期の党は何を目指したのか
初期の日本共産党は、資本主義と天皇を中心とする政治体制の変革、労働者・農民の権利拡大、植民地支配や軍事介入への反対などを課題にしました。
結成直後の政策体系は形成の途中にありました。
日本の社会状況をどう捉えるか、合法的な大衆運動を重視するか、非合法の革命組織を維持するかをめぐり、内部で意見が分かれました。
1922年前後の綱領・規約についても、国内で作られた文書、コミンテルン側の案、後年の証言の関係が研究されています。
党を一枚岩の組織として描くより、日本の社会主義運動の伝統とコミンテルンの方針が交差しながら形を整えた組織として見る方が実態に近くなります。
なぜ非合法組織として出発したのか
1922年の時点では、治安維持法はまだ制定されていません。
それでも政府は、治安警察法、出版法、新聞紙法などを使い、社会主義者の集会、結社、出版を取り締まっていました。
天皇を中心とする国家体制や私有財産制度の変革を目指す組織が、公認政党として活動できる政治環境ではありませんでした。
日本共産党は構成員と組織を秘密にし、労働組合や社会運動の中で活動しました。
秘密組織化は検挙を避けるために必要でしたが、社会との接点を狭め、内部での方針決定を分かりにくくする問題も生みました。
結成後はどのように進んだのか
結成・検挙・解党・再建
ロシア革命が起こり、国際的な社会主義・共産主義運動が拡大しました。
日本共産党が秘密組織として結成されました。党は7月15日を創立日としています。
第一次共産党事件で構成員が一斉に検挙され、組織は大きな打撃を受けました。
最初の党組織は解党し、再建のための連絡組織が残されました。
治安維持法が成立し、翌年に日本共産党が再建されました。
なぜ最初の組織は短期間で解党したのか
1923年6月、警察は日本共産党の構成員を一斉に検挙しました。第一次共産党事件と呼ばれます。
同年9月の関東大震災では、社会主義者や労働運動家も暴力と弾圧の対象になりました。組織は人員と連絡網を失い、活動の継続が難しくなります。
党内では、非合法の共産党を維持する方針と、合法的な労働・農民運動や無産政党の組織化を優先する方針が対立しました。
コミンテルンは共産党の維持を求めましたが、国内指導者の一部は時期尚早と判断します。
1924年、最初の日本共産党は再建用の連絡組織を残して解党しました。
解党には弾圧に加え、日本の社会状況に合う運動方法をめぐる路線対立も関わっていました。
治安維持法と再建後の党
1925年、国体の変革または私有財産制度の否認を目的とする結社などを取り締まる治安維持法が成立しました。
日本共産党は1926年に再建されますが、治安維持法の中心的な取締対象になります。
1928年の三・一五事件、1929年の四・一六事件では、共産党員と関係者が全国で大量に検挙されました。
普通選挙によって選挙権を持つ男性が増えた時期に、体制の根本的変革を掲げる政治運動への弾圧も強化されたのです。
党の中央組織は1930年代半ばまでに壊滅状態となり、合法的な政党として活動できるようになるのは1945年の治安維持法廃止後でした。
結成を歴史の中でどう見るか
日本共産党の結成は、現在の政党への賛否だけで評価する出来事ではありません。
大正時代の政治参加には、広がる部分と閉ざされる部分がありました。
男子普通選挙を求める運動、女性の政治参加、労働組合や農民組合の拡大が進む一方、天皇を中心とする政治体制や私有財産制度の変革を目指す組織には公然活動が認められませんでした。
また、初期の党は国内の社会運動から生まれながら、コミンテルンの指導と資金に強く依存する問題も抱えました。
結成の経緯を見ると、思想弾圧の問題とともに、国際組織と国内政党の関係、秘密組織の意思決定、合法運動との距離という課題も見えてきます。
まとめ|日本共産党の結成は、大正期の政治参加の境界を示した
日本共産党は、第一次世界大戦後の労働・農民運動、ロシア革命、コミンテルンの働きかけを背景に組織されました。
党は1922年7月15日を創立日としていますが、地下組織であったため、成立時期や初期組織の詳細には研究上の論点があります。
1923年の一斉検挙後、最初の組織は1924年に解党し、1926年に再建されました。再建後は治安維持法による大規模な検挙の対象になります。
この出来事から見えるのは、政治参加が広がった大正時代にも、認められる政治運動の範囲には明確な境界があったことです。
日本共産党結成は、社会運動の広がり、国際革命運動の影響、国家による思想統制が交差した出来事でした。
参考資料・参考図書
- 国立国会図書館「コミンテルン文書 日本共産党ファイル」
- 国立国会図書館「堺利彦|近代日本人の肖像」
- 国立国会図書館デジタルコレクション「1922年9月の日本共産党綱領(上)」
- J-STAGE「イタリア共産党と日本共産党における組織原則」
- 日本共産党「共産党のキホンのキホン」
- 日本共産党「日本共産党綱領」

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