第二次護憲運動は、1924年に憲政会、立憲政友会、革新倶楽部が清浦奎吾内閣を批判し、政党を基礎とする内閣と普通選挙の実現を訴えた政治運動です。
清浦内閣は、衆議院で多数を持つ政党を基盤とせず、貴族院の有力者を中心に組閣されました。
これに対し、三つの政党は「護憲三派」を結成します。総選挙で多数を得ると、清浦内閣は退陣し、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立しました。
翌1925年には、納税額による制限を撤廃した男子普通選挙法が成立します。
この運動は、誰が首相になるかをめぐる政争にとどまらず、選挙で支持を得た政党が内閣を担うという慣行を強めました。
このページでは、なぜ清浦内閣が「特権内閣」と批判されたのか、護憲三派が何を訴えたのか、第二次護憲運動が政党政治へ与えた影響を整理します。
第二次護憲運動で何が変わったのか
政党が選挙で多数を得て内閣を組織する流れが強まり、男子普通選挙の実現へ進みました。
貴族院を主な基盤とする内閣が、政党と世論を軽視していると批判されました。
憲政会・立憲政友会・革新倶楽部が協力し、総選挙で多数を得ました。
加藤高明内閣が成立し、翌年に男子普通選挙法が成立しました。
「憲政を守る」とはどういう意味だったのか
大日本帝国憲法では、首相を国民が直接選ぶ制度はありませんでした。
天皇が国務大臣を任命し、組閣する人物を選びます。その過程では元老、宮中、官僚、軍部、貴族院、政党など、複数の政治勢力が影響力を持っていました。
一方、衆議院議員は選挙で選ばれ、予算や法律の成立に関わります。政党が衆議院で多数を持つようになると、多数党の党首が内閣を組織するべきだという考えが強まりました。
当時の「憲政擁護」は、現在の議院内閣制をそのまま求めた言葉ではありません。
藩閥、官僚、貴族院など一部の勢力だけで政権を決める政治を批判し、選挙と政党をより重視する政治へ進める要求でした。
なぜ清浦奎吾内閣が成立したのか
1923年12月、摂政宮裕仁を狙った虎ノ門事件が起きました。
警備上の責任を取り、第二次山本権兵衛内閣が総辞職します。その後、枢密院議長だった清浦奎吾に組閣の大命が下りました。
清浦は貴族院の有力会派である研究会を主な基盤に内閣を組織しました。
政党側はこの人事を、衆議院の多数や世論を軽視した「特権内閣」「貴族院内閣」だと批判します。
当時、政党内閣が続いた後に政党を基盤としない内閣が続いていたため、政治の進む方向が問われました。
護憲三派はなぜ協力したのか
1924年1月、憲政会の加藤高明、立憲政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅が協力し、護憲三派を結成しました。
三党は政策も支持基盤も同じではありません。
それでも、清浦内閣を退陣させ、政党内閣を実現し、普通選挙を進めるという目標でまとまりました。
清浦内閣は衆議院を解散し、政治の判断は総選挙へ委ねられます。
護憲三派は全国で演説会を開き、憲政擁護と普選断行を訴えました。新聞などのメディアも論戦の場になり、選挙は内閣の正当性を問うものになりました。
第二次護憲運動はどのように進んだのか
清浦内閣から護憲三派内閣へ
虎ノ門事件を受け、第二次山本内閣が総辞職しました。
清浦内閣が成立。憲政会・立憲政友会・革新倶楽部が護憲三派を結成しました。
第15回衆議院議員総選挙で護憲三派が多数を得ました。
清浦内閣が退陣し、加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立しました。
男子普通選挙法と治安維持法が成立しました。
総選挙は何を示したのか
1924年5月の総選挙で、護憲三派は衆議院の多数を得ました。
清浦内閣は退陣し、第一党となった憲政会の加藤高明を首相とする内閣が成立します。高橋是清と犬養毅も入閣しました。
総選挙で示された支持が、清浦内閣の退陣と政権交代へ結びつきました。
選挙で多数を得た政党が内閣を組織するという考え方は、その後の政治慣行として定着していきました。
加藤高明内閣以後、1932年の五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまで、政党を基盤とする内閣が続きます。
普通選挙法へどうつながったのか
第二次護憲運動では、憲政擁護とともに男子普通選挙の実現が主要な争点になりました。
当時の衆議院選挙には納税額による制限があり、選挙権を持つ男性は限られていました。
護憲三派内閣は普通選挙法案をまとめ、1925年に成立させます。納税要件が撤廃され、25歳以上の男性へ選挙権が広がりました。
女性には選挙権が認められず、植民地に暮らす人々の政治参加にも大きな制限がありました。そのため「普通選挙」と呼ばれても、現在の普通選挙とは範囲が異なります。
同じ1925年には治安維持法も成立しました。
政治参加を広げる制度と、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を取り締まる制度が、同時期に整えられたのです。
第二次護憲運動の限界は何だったのか
第二次護憲運動によって政党内閣の流れは強まりましたが、政党政治が安定したとは言い切れません。
政党は選挙資金を必要とし、企業との関係や汚職が批判されました。政党同士の対立も激しく、政策より政権争いが目立つ場面がありました。
首相の任命制度、貴族院、枢密院、軍部など、政党以外の勢力が強い影響力を持つ構造も続きました。
女性には選挙権がなく、植民地の人々の政治参加にも大きな制限がありました。
第二次護憲運動は政党政治を前進させましたが、制度と政治文化の両面に課題を残しました。
まとめ|第二次護憲運動は、選挙を政権へ結びつけた
第二次護憲運動は、貴族院を主な基盤とした清浦内閣に対し、護憲三派が政党内閣と普通選挙を求めた運動です。
1924年の総選挙で護憲三派が多数を得ると、清浦内閣は退陣し、加藤高明内閣が成立しました。
翌年には男子普通選挙法が成立し、納税要件が撤廃されます。一方で治安維持法も成立し、政治参加の拡大と思想統制が並行しました。
この運動が残した最大の変化は、衆議院選挙の結果が内閣の構成へ反映される流れを強めたことです。
第二次護憲運動は、大正デモクラシーが制度へ結びついた到達点であり、その限界も映し出した出来事でした。
参考資料・参考図書
- 国立国会図書館「3-12 第2次護憲運動」
- アジア歴史資料センター「普通選挙の世界的潮流と第二次憲政擁護運動」
- アジア歴史資料センター「普選への道 年表」
- 国立国会図書館「大正デモクラシーとメディア」
- 国立国会図書館「男子普通選挙法の成立と治安維持法」

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