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京都政局と長州藩の逆転|追放された長州藩はなぜ倒幕勢力へ変わったのか【明治維新・第2編】

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1863年、政治の主導権をめぐる争いの舞台は、将軍のいる江戸から天皇のいる京都へ移っていました。

朝廷への影響力を強めていたのは、長州藩と急進的な尊王攘夷そんのうじょうい派です。しかし、その勢いは一夜で崩れます。会津藩と薩摩藩が動き、長州藩は御所の警備から外され、京都を追われました。

それから約三年。朝敵ちょうてきとされ、幕府軍に包囲されるほど追い詰められた長州藩は、幕府に対抗する有力勢力へ変わります。

なぜ、敗者だった長州藩は逆転できたのでしょうか。

第2編では、八月十八日の政変から池田屋事件、禁門の変、功山寺こうざんじ挙兵、薩長同盟さっちょうどうめい、第二次長州征伐ちょうしゅうせいばつまでをたどります。そこから見えてくるのは、京都の政治をめぐる争いと、危機の中で自らを変えた長州藩の姿です。

この編でわかること

問いこの記事でたどる答え
なぜ政治の中心が京都へ移ったのか天皇の意思と朝廷の権威が、外交と国政を左右するようになったため
なぜ長州藩は京都を追放されたのか急進的な攘夷策への反発と、朝廷内の主導権争いが重なったため
なぜ禁門の変を起こしたのか京都での立場と藩の名誉を武力で取り戻そうとしたため
高杉晋作たかすぎしんさくは何を変えたのか幕府へ全面恭順きょうじゅんする藩政を倒し、軍制改革と抗戦の道を開いた
なぜ薩摩藩と長州藩は手を結んだのか感情を越えて、双方に幕府へ対抗する現実的な必要が生まれたため

第1章|京都を制する者が、政治を動かす

開国後、朝廷の許可である勅許ちょっきょが外交問題になり、天皇の意思は国政を左右するようになりました。

長州藩と尊王攘夷派の志士・公家は、朝廷へ働きかけ、「天皇を尊び、外国勢力を退ける」という政治運動を進めます。1863年には、攘夷の実行を幕府へ迫る動きが強まりました。

しかし、孝明天皇は外国との通商を嫌っていても、急進派が政治を動かすことまで望んでいたわけではありません。天皇の意思と、尊王攘夷派が掲げた行動は、同じではなかったのです。

京都守護職きょうとしゅごしょく松平容保まつだいらかたもりが率いる会津藩は、御所と京都の治安を守る立場にありました。薩摩藩の島津久光らも、急進派ではなく、朝廷と幕府が協力する公武合体こうぶがったいによる改革を目指していました。

同じ「国を守る」という目的を語りながら、進もうとする道は分かれていました。

第2章|八月十八日の政変――長州藩が一夜で追放される

1863年8月18日、会津藩と薩摩藩、公武合体派の公家が動きます。

長州藩は御所警備の任を解かれ、朝廷への影響力を失いました。三条実美さんじょうさねとみら七人の公家も京都を離れ、長州へ向かいます。いわゆる七卿落ちしちきょうおちです。

昨日まで朝廷政治の中心にいた長州藩が、一日で京都から排除されました。

関係人物: 孝明天皇/松平容保/島津久光/三条実美

八月十八日の政変を詳しく読む →

この政変は、単純な「尊王派と幕府派の戦い」ではありません。会津藩も薩摩藩も朝廷を重んじていました。争われていたのは、天皇の意思を誰が政治へ反映し、京都を誰が守るのかという主導権でした。

追放された長州藩は、名誉と政治的な立場を取り戻そうとします。しかし、対話による復権は進まず、藩内では武力で京都へ向かう声が強まっていきました。

第3章|池田屋事件――治安維持が次の戦いを呼ぶ

京都から長州藩が追われても、長州系を含む尊王攘夷派の志士は市中で活動を続けていました。

京都守護職のもとで治安維持を担った新選組は、志士たちの動きを追います。1864年6月5日、近藤勇らは旅館・池田屋へ踏み込み、集まっていた志士を殺傷・捕縛しました。

関係人物: 近藤勇/土方歳三/沖田総司/宮部鼎蔵/吉田稔麿

池田屋事件を詳しく読む →

池田屋事件によって、新選組は京都の治安組織として名を上げました。一方、長州側は多くの人材を失います。

事件は反対勢力を静めるのではなく、長州藩内の進発論を勢いづかせました。「これ以上待てば、京都での足場も仲間も失われる」。その危機感が、慎重論を押し流していきます。

なお、志士側が御所への放火や天皇の誘拐をどこまで具体的に計画していたかは、後世の説明と記録を分けて慎重に見る必要があります。

第4章|禁門の変――尊王を掲げた長州藩が朝敵になる

1864年7月、長州軍は京都周辺へ進み、朝廷へ赦免と復権を願い出ました。しかし認められず、御所周辺で戦闘が始まります。

蛤御門はまぐりごもんでは、来島又兵衛きじままたべえらの長州軍と会津藩兵が激突し、薩摩藩兵も会津側に加わりました。長州軍は一時御所へ迫りましたが敗退し、久坂玄瑞くさかげんずい鷹司邸たかつかさていで自刃します。戦火は京都市中へ広がり、多くの家屋が焼けました。

関係人物: 久坂玄瑞/来島又兵衛/松平容保/西郷隆盛/孝明天皇

禁門の変を詳しく読む →

長州藩は天皇を倒そうとしたのではありません。尊王を掲げ、朝廷での立場を取り戻そうとしていました。

しかし、朝廷の命令に反して武力を用い、御所を守る諸藩と戦った結果、長州藩は朝敵とされます。掲げた理念ではなく、実際の行動によって敵と判断されたのです。

幕府は諸藩へ長州征討ちょうしゅうせいとうを命じました。外からは幕府軍、海からは下関を攻撃する四国連合艦隊。長州藩は、内外から同時に追い詰められます。

第5章|功山寺挙兵――少人数の決断が藩を変える

第一次長州征討を前に、長州藩では幕府へ恭順して藩を存続させようとする勢力が主導権を握りました。禁門の変の責任者は処分され、改革派も弾圧されます。

そのとき、高杉晋作は従う道を選びませんでした。

1864年12月、高杉は功山寺で少人数とともに挙兵します。最初から勝利が約束された戦いではありません。行動を起こし、その姿を示すことで仲間を集めようとした決断でした。

やがて奇兵隊などの諸隊が加わります。高杉らは下関の拠点、資金、武器を押さえ、藩政府を主導していた勢力を倒しました。

関係人物: 高杉晋作/伊藤俊輔(のちの伊藤博文)/山県狂介(のちの山県有朋)

高杉晋作と功山寺挙兵を詳しく読む →

ここで長州藩は、ただ攘夷を叫ぶ藩から、外国との戦いで知った現実を受け止め、西洋式の武器と身分を越えた部隊を活用する藩へ変わっていきます。

逆転を生んだのは、高杉一人の勇気だけではありません。藩の方針への不満、奇兵隊などの支持、下関という拠点、外国との戦いから得た現実認識が重なった結果でした。

第6章|薩長同盟――昨日の敵と手を結ぶ

長州藩が次に向き合わなければならなかったのは、幕府による再征討でした。最新式の武器と政治的な支援が必要ですが、朝敵とされた長州藩は外国商人と公然と取引しにくい立場です。

一方、薩摩藩も幕府中心の政治に限界を感じていました。長州征討によって国内の争いが続けば、日本全体が弱まり、外国につけ込まれる危険があります。

しかし両藩は、八月十八日の政変と禁門の変で敵同士でした。必要性が生まれても、感情の溝がすぐに消えるわけではありません。

そこで坂本龍馬や中岡慎太郎らが双方を行き来し、武器購入などの実務的な協力を積み上げます。1866年1月、京都で薩摩藩と長州藩の協力が確認されました。薩長同盟です。

関係人物: 西郷隆盛/小松帯刀こまつたてわき木戸孝允きどたかよし/坂本龍馬/中岡慎太郎

薩長同盟を詳しく読む →

薩長同盟を、最初から倒幕だけを目的とした単純な軍事同盟と見ることはできません。長州藩が不当に攻撃された場合の支援などを確認し、幕府が長州藩を孤立させて処分する構図を崩した政治的な協力でした。

友情による仲直りではありません。それぞれが守るべきものを考え、昨日の敵とも手を結ぶ現実的な選択でした。

第7章|第二次長州征伐――幕府はなぜ勝てなかったのか

1866年、幕府は再び長州藩を攻めました。幕府は多数の諸藩を動員しましたが、戦いは思うように進みません。

長州軍は新式の武器を備え、奇兵隊などが各方面で機動的に戦いました。対する幕府軍は、諸藩ごとに事情や戦意が異なり、統一した指揮を取りにくい状態でした。薩摩藩も幕府へ積極的に協力しませんでした。

さらに将軍徳川家茂が大坂城で亡くなり、幕府は停戦へ向かいます。

関係人物: 徳川家茂/高杉晋作/大村益次郎おおむらますじろう/西郷隆盛

第二次長州征伐を詳しく読む →

敗北の意味は、軍事上の失敗だけではありません。

幕府が命令しても、諸藩が同じ目的で動くとは限らない。幕府が全国から兵を集めても、一つの藩を従わせられない。その事実が、幕府の権威低下を全国へ示しました。

長州藩は、なぜ逆転できたのか

危機長州藩に起きた変化
八月十八日の政変で京都を追放朝廷への働きかけだけでは復権できないと知った
池田屋事件で人材を失う進発論が強まり、禁門の変へ向かった
禁門の変で敗れ朝敵となる藩の存続と進路をめぐる内部対立が表面化した
外国艦隊と幕府軍に包囲される攘夷の限界を知り、軍備と組織の改革を進めた
功山寺挙兵幕府への全面恭順から抗戦へ方針を転換した
薩長同盟孤立を破り、武器と政治的な支援を得た
第二次長州征伐改革した軍の力を示し、幕府の権威を低下させた

長州藩の逆転は、最初から用意された筋書きではありません。

京都への進軍は大きな失敗でした。多くの人材を失い、朝敵となり、藩そのものが消える危険にも直面します。

それでも失敗をなかったことにせず、戦い方、組織、外交相手を変えました。理念だけに頼らず、現実から学び直したことが、長州藩を倒幕の中心勢力へ変えたのです。

第2編で分かったこと

  • 京都では、朝廷への影響力と御所の警備をめぐり、長州・会津・薩摩などが争った
  • 八月十八日の政変で追放された長州藩は、池田屋事件を経て京都へ進軍した
  • 禁門の変で敗れた長州藩は朝敵となり、幕府と外国艦隊に追い詰められた
  • 高杉晋作の功山寺挙兵を機に、長州藩は全面恭順から抗戦へ転換した
  • 薩摩藩と長州藩は、感情ではなく政治・軍事上の必要から協力した
  • 第二次長州征伐の失敗により、幕府が諸藩を統率する力の限界が明らかになった

まとめ|敗北から学んだ長州藩が、幕府を追い詰める側へ回った

1863年、長州藩は八月十八日の政変で京都から追放されました。翌年には禁門の変で敗れ、朝敵となります。

この時点で、長州藩は明治維新の勝者ではありません。むしろ、政治にも軍事にも失敗し、消滅しかねない敗者でした。

転換点となったのが、高杉晋作の功山寺挙兵です。藩内の方針を変え、外国との戦いから学んだ軍備改革を進め、昨日の敵だった薩摩藩とも協力しました。

そして第二次長州征伐で幕府軍を退けたとき、立場は逆転します。幕府が長州藩を処分するのではなく、薩摩・長州が幕府に代わる政治を構想する段階へ入ったのです。

危機の中で何を守り、何を変えるのか。長州藩の歩みを知ることは、失敗を次の判断へ変える生き方を考える入口でもあります。

次に動くのは、最後の将軍・徳川慶喜です。

幕府を終わらせようとする薩摩・長州。内戦を避けながら政権を朝廷へ返そうとする土佐藩。そして、新しい政治体制の中でも徳川家の影響力を残そうとする慶喜。

第3編では、大政奉還から王政復古、鳥羽・伏見の戦いまでをたどり、「政権を返したのに、なぜ江戸幕府は戦争によって消滅したのか」を見ていきます。

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