武士だけが戦う国から、国民を兵士として組織する国へ変わる転換点でした。ただし免役規定と抽選があり、対象者全員がただちに入営したわけではありません。
徴兵令をひとことで表すと
徴兵令は、兵役の対象、期間、免役などを定め、1873年1月に全国へ公布された法令です。これに先立つ1872年11月、政府は徴兵の理念を示す徴兵告諭を発していました。
この全国軍づくりを主導したのが、山縣有朋です。山縣は欧州の軍制を調査し、身分ではなく国家が兵士を集める近代軍の整備を進めました。
徴兵令
1873年に出された法令。誰を、どのような兵役へ組み入れるかを具体化しました。
徴兵制
徴兵令を出発点に、改正を重ねながら続いた軍事制度全体を指します。
ひこまる「国民皆兵」なら、満20歳の男子は全員入営したんですか?



そう単純ではない。免役や抽選があり、当初から全員が兵士になったわけではないんじゃ。理念と実際の運用を分けて見ることが大切じゃぞ。
なぜ武士だけの軍隊では足りなかったのか
江戸時代の軍事力は藩ごとに分かれ、武士が戦うことを前提にしていました。しかし廃藩置県で藩が廃止されると、政府には全国を直接守る軍隊が必要になります。
欧米諸国は大規模な国民軍と近代兵器を持っていました。限られた士族だけを集める軍では人数も統一性も不足します。政府は身分を問わず兵士を集め、同じ訓練と指揮系統のもとに置く全国軍を必要としたのです。
徴兵令までの流れ
東京・仙台・大阪・熊本に軍事拠点を置き、1873年には名古屋と広島を加えました。
身分にかかわらず国を守る「全国募兵」の理念を政府が示しました。
満20歳の男子を兵役の対象とし、現役3年を基本とする仕組みが動き始めました。
誰が兵士になったのか――原則と現実
原則は、満20歳になった男子が徴兵検査を受け、現役3年の兵役に就くというものでした。しかし一家の主、家の跡継ぎ、官吏、一定の学生などには免役規定がありました。検査に合格した人のうち、必要な人数は抽選で選ばれます。
『一冊でわかる明治時代』は、当初、実際に徴兵されたのは検査合格者のおよそ3分の1だったと説明しています。理念としての「国民皆兵」と、制度開始直後の運用には隔たりがありました。
「血税」という言葉は、なぜ恐れられたのか
徴兵告諭では、国民が国家へ負う兵役を「血税」と表現しました。これは血を文字どおり税として差し出す命令ではなく、フランス語の表現にならって、命をかける兵役負担を税にたとえた言葉です。
しかし新しい制度の説明が十分に届かない地域では、「政府が人の血を取る」といった誤解が広まりました。家の働き手を奪われるという現実的な不安も重なり、各地で血税一揆と呼ばれる反対運動が起こります。
農民と士族は、それぞれ何に反発したのか
農家にとって若い男子は重要な働き手でした。兵役で家を離れれば、農作業と家計に直接影響します。また免役規定によって、兵役を避けやすい家と避けにくい家の差が生まれ、「平等な制度」という政府の説明への不信も強まりました。
士族の反発は別の意味を持ちます。戦うことは武士の役割と誇りでした。平民が軍人になることは、武士の特権が失われることを示します。徴兵令は、廃刀令や秩禄処分とともに、武士の身分を解体する改革でもありました。
徴兵令は、明治国家の何を変えたのか
徴兵令によって、政府は出身地や身分の異なる人々を同じ軍隊へ集め、共通の命令・訓練・生活規律に従わせました。これは軍事力の整備であると同時に、人々を「藩の領民」から「国民」へ組み替える働きも持ちました。
その軍は西南戦争で士族反乱を鎮圧し、のちに日清・日露戦争を戦います。徴兵令は近代国家の独立を支える力を生んだ一方、国家が個人の身体と時間を兵役として動員する仕組みを始めた法令でもありました。
徴兵令とほかの改革は、どうつながるのか
全国軍を維持するには、兵士だけでなく財源、教育、交通、産業が必要です。地租改正は軍を支える歳入を整え、学制は読み書きや計算を身につけた人材を育てました。鉄道と海運は兵士・食料・武器を運び、工業は装備の国産化を支えます。
つまり徴兵令は単独の軍事法令ではなく、富国強兵という国づくりのなかで動いた改革でした。
法令の先に続いた制度を読む
参考資料
- 大石学監修『一冊でわかる明治時代』河出書房新社、2020年、56〜59頁・163頁・166頁。
- 国立公文書館 アジア歴史資料センター「徴兵令」Ref.C09060002500。
- 国立公文書館「日本のあゆみ」明治6年。


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