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修身教育はどのように作られた?教育勅語と国定教科書の成立|『修身 尋常小学校教科書に学ぶ』第1章

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教育勅語は修身教育をどう変えたのか

教育勅語は明治23年(1890年)10月30日に発布されました。修身という教科はそれ以前から存在していたため、「教育勅語をもとに修身が新設された」という説明は正確ではありません。教育勅語は、すでにあった修身教育の方向を全国的にまとめる強い基準になった、と捉えるのが適切です。

成立には複数の人物が関係しましたが、中心となったのは法制官僚の井上毅と、明治天皇の侍講を務めた元田永孚です。井上は宗教的教義や哲学上の争いに深入りせず、臣民が共有できる道徳的文書を目指しました。元田は儒教的な忠孝と皇室を中心とする道徳を重視し、草案への意見と修文を行いました。中村正直、山縣有朋、芳川顕正らも成立過程に関係しますが、全員を同じ役割の共同起草者とみなすのは適切ではありません。

家族の徳から国家への奉仕まで

教育勅語は、父母への孝行、兄弟姉妹の友愛、夫婦の協調、友人との信頼、慎み、博愛、学問と仕事、公益、法令の尊重を説きます。そして国家に危急があれば「義勇公ニ奉シぎゆうこうにほうじ」、皇運を支えるよう求めました。

本書は第四期の6年生用修身書に収められた教育勅語の解説を紹介しています。その教材は、教育勅語の冒頭を皇祖皇宗の徳、臣民の忠孝、国体の精華として説明し、身近な徳目から公益、法令遵守、非常時の奉公へと話を進めます。最後には、その道を皇室の祖先から受け継がれ、古今にも国内外にも通用する教えとして位置づけます。

ここで区別したいのは、教育勅語の原文と、後の修身教科書による説明です。たとえば、国家の危機に「一身を捧げる」といった強い表現は、原文の「義勇公ニ奉シ」を教材や本書が解釈して説明した部分を含みます。原文、教科書の解説、本書著者の評価を一続きの文章として扱うと、どこまでが何の主張なのか分からなくなります。

「国民道徳の大本」「日本国民の聖典」は誰の位置づけか

本書は教育勅語を「国民道徳の大本」「日本国民の聖典」と位置づけます。しかし、これは教育勅語が自らをそう呼んだという意味ではありません。本書が紹介する『国民道徳要領』など、後世の解説・受容の中で与えられた評価です。

教育勅語が学校儀式や修身教育を通じて大きな権威を持ったことは確かです。ただし、その受け止め方や実践が全国で常に同じだったとまでは言えません。また『国民道徳要領』について、本書は戦前の教師志願者に広く読まれたものとして扱いますが、どの時期にどの範囲で必読だったのかは、書籍の評価と制度上の指定を分けて確認する必要があります。

最初は教科書より、教師による「感化」が重視された

教育勅語発布直後の修身では、教科書だけに頼らず、教師が国内外・古今の人物の善い言葉や行いを口頭で教え、自らも模範を示す「感化教育」が重視されました。

しかし、全国の学校で教育勅語の趣旨に沿った教育を行うには、共通の教材も必要になります。小学校教則大綱では、教育勅語の趣旨に基づいて児童の良心を育て、徳性を養い、人として実践すべき道を教えることが修身の目的とされました。さらに尊王愛国の志操を養い、国家に対する責務の大要を示すことが求められます。

つまり、教師の人格による感化と、教科書による全国共通化は対立するものではありませんでした。共通の国家的基準を示しながら、教師自身にも模範となることを求めたのです。

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