検定教科書から国定教科書へ
教育勅語の趣旨を学校教育に反映するため、文部省は修身教科書の検定基準を設けました。児童用と教師用、尋常小学校用と高等小学校用を区別し、学年に応じて難易度を調整すること、例話にはなるべく日本人を登場させ、善行を勧める内容にすることなどが求められました。
民間出版社は基準に沿って多くの教科書を作り、明治29年(1896年)には検定を通過した教科書が169種に達したと本書は記します。選択肢が増える一方、採択されるかどうかは出版社の経営を左右しました。その結果、学校や府県の採択関係者への売り込みが激しくなり、金品を渡して便宜を得ようとする贈賄と、それを受け取る収賄が問題になります。
教科書疑獄事件が国定化の直接の契機になった
明治35年(1902年)に表面化した教科書疑獄事件では、教科書採択をめぐる大規模な贈収賄が摘発されました。これを直接の契機として、明治36年(1903年)に小学校令が改正され、翌年度から国が小学校教科書を編集する国定教科書制度が始まります。
- 民間出版社が検定基準に沿って教科書を作る
- 学校での採択をめぐる販売競争が激化する
- 採択関係者への贈収賄が発覚する
- 制度への信頼が揺らぎ、国定化を求める動きが強まる
- 1904年度から国定教科書を使用する
文部科学省の教育史も、教科書疑獄事件を国定制度成立の「直接の契機」としています。同時に、価格や品質の安定、全国的な教育内容の統一を求める声など、当時の情勢も重要な背景でした。したがって、国定化を汚職事件だけで説明するのも、愛国教育だけで説明するのも不十分です。
三国干渉は国定化とどう関係したのか
本書は、国定化の背景を教科書制度上の問題だけでなく、日清戦争後の国際情勢とも結びつけます。明治28年(1895年)、日本は下関条約で清から遼東半島の割譲を受けました。しかしロシア、ドイツ、フランスは、その領有が極東の平和を妨げるなどとして返還を要求しました。日本は三国を相手に戦う力がないと判断し、遼東半島を清へ返還します。これが三国干渉です。
その後、ロシアは清から旅順・大連を租借し、旅順を軍港・要塞として整備しました。ドイツは膠州湾、フランスは広州湾を租借します。三国干渉の時点で三国が後の租借地を分配する密約を結んでいたと単純に考えることはできませんが、日本側には「返還を迫った列強自身が中国で権益を得た」という強い屈辱感と不信感が残りました。
「臥薪嘗胆」は、将来の目的を果たすために苦労や屈辱に耐えるという意味です。三国干渉後の日本では、対ロシア警戒と軍備拡張の機運を表す言葉として広がりました。
確認できる流れと、本書の解釈を分ける
三国干渉が日本社会の対ロシア感情を悪化させ、軍備拡張を促したことは確認できます。本書はさらに、この危機感が尊王愛国、君民一体、挙国一致を求める教育を強め、修身教科書の国定化を急がせたと説明します。
ただし、ここは本書の歴史解釈として読む必要があります。国定教科書制度への転換の直接の契機は教科書疑獄事件であり、制度統一、価格、品質、採択への不信など複数の事情が重なっていました。三国干渉から国定化へ一直線の因果関係が証明されているわけではありません。
また、本書はロシアの満州・朝鮮への勢力拡大を、日本までも植民地化しようとする戦略として強く警戒します。ロシアが旅順・大連を租借し、満州と朝鮮をめぐって日本と対立を深めたことは事実です。一方、ロシア政府が日本列島全体を植民地化する具体的計画を持っていたと断定するには、別の根拠が必要です。
国定修身教科書は五つの時期に分けられる
国定修身教科書は、一度作られて終わったものではありません。社会状況や教育方針に応じて改訂され、本書はそれを五期に分けて読み比べます。第1章の終盤では、第一期と第五期の高学年用目次を示し、内容の変化を見せています。
第一期の教科書にも、天皇、皇室、軍人勅諭、教育勅語、帝国憲法、納税、国民の務めが含まれます。その一方、勤労、進取、正直、忍耐、勤学、公共、礼儀、親切、博愛、家庭、朋友、自立自営、迷信など、個人生活や社会生活に関する題材も幅広く並んでいます。フランクリンやナイチンゲールなど外国人の事例も使われました。
したがって、初期の修身が普遍的な道徳だけを教え、後から突然国家主義へ変わったと見るのは正確ではありません。第一期から個人道徳と国家道徳の両方が存在していました。
第五期では戦時の人物と国家への献身が前面に出た
太平洋戦争期に使われた第五期の目次には、「大日本」「佐久間艇長の遺書」「軍神のおもかげ」「特別攻撃隊」「北満の露」「国民皆兵」などが並びます。中江藤樹、細井平洲、通潤橋、農夫作兵衛、間宮林蔵など、学問、礼儀、勤労、公共に関わる人物も残っていますが、戦争、軍人、国家への献身を扱う教材が目立つ構成になりました。
ここから見えるのは、修身が最初から最後まで同じ内容だったのではなく、時代とともに重点を変えたことです。親孝行、正直、勤勉、友愛といった徳目は続きましたが、戦争が長期化するにつれ、それらを国家への自己犠牲へ結びつける教材が強く前面に出ました。
第一期と第五期を比べるときのポイント
「日常道徳から国家道徳へ完全に入れ替わった」のではありません。両方が初期から存在し、戦時期になると国家道徳、軍人の顕彰、非常時の自己犠牲がより強くなった、と捉えると変化を正確に理解できます。
第1章から見える、修身教育の二つの顔
修身教育には二つの顔があります。一つは、親を大切にする、友人を信じる、誠実に働く、学問に励む、人を思いやるといった人格教育です。もう一つは、皇室への忠誠、国家への責務、兵役や納税、非常時の奉公を教える国民教育です。
この二つは教科書の中で別々に置かれたのではありません。家庭で親に尽くす「孝」と、国家や天皇に尽くす「忠」が連続するものとして教えられました。日常生活で徳を積み重ねることが、国家を支える国民になる道へつながる構成です。
本書の著者は、そのつながりを日本人の道徳と愛国心を育てる仕組みとして評価します。現代から読む私たちは、日常的な徳目の価値を認めることと、それが天皇中心の国家秩序や戦時の自己犠牲へ接続された歴史を検証することを両立させる必要があります。
まとめ|修身は教育勅語より前からあり、教育勅語によって方向づけられた
第1章を通して確認できるのは、修身教育が一つの文書から一度に作られたものではないということです。学制以後の学校制度、知育と徳育をめぐる議論、小学校教員心得、『幼学綱要』、教育勅語、検定教科書、教科書疑獄事件、国定教科書制度が積み重なって形づくられました。
教育勅語は修身を新設したのではなく、その後の修身教育を方向づける全国的な基準になりました。親子や友人との関係から学問、公益、法令、国家への奉仕までを一つの道徳体系として結びつけたことに、大きな特徴があります。
そして国定教科書は改訂を重ね、初期から存在した国家道徳が、戦時期には軍人の顕彰や自己犠牲を伴う形で強く前面に出ました。修身を理解するには、徳目の言葉だけで良し悪しを決めず、それが誰によって、どの時代に、どのような国家像と結びつけて教えられたのかを見る必要があります。
さらに詳しく知る
- 教育勅語とは?学校が天皇と国民を結びつけた仕組み
- 教育勅語はなぜ作られた?明治日本が求めた道徳教育
- 教育勅語はどのように作られた?起草から発布までの流れ
- 井上毅とは?教育勅語の起草に込めた思想
- 元田永孚とは?明治天皇の教育思想を支えた儒学者
- 教育勅語には何が書かれている?十二の徳目をわかりやすく解説
- 教科書疑獄事件と国定教科書制度の始まり
- 修身とは?教科書からたどる、戦前の日本人が学んだ生き方
参考資料
- 北影雄幸『修身 尋常小学校教科書に学ぶ』勉誠出版、第1章「修身教育の基礎知識」pp.14–30
- 文部科学省『学制百年史』「学科課程と教科書の制度」
- 国立国会図書館調査及び立法考査局「教育勅語の成立から終戦後の国会決議に至る経緯」
- 国立国会図書館「元田永孚」
- アジア歴史資料センター「三国干渉」
本記事は『修身 尋常小学校教科書に学ぶ』を章ごとに読むシリーズの第1章解説です。書籍に引用された修身教科書の記述、北影雄幸氏の評価、公的資料で確認できる制度史を区別して構成しています。

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