教育勅語は、明治日本が全国共通の学校制度を整えるなかで、知識だけでなく、国民が共有する道徳の基準を示すために作られました。西洋化への不安だけが理由ではなく、近代国家として人々をどのように結びつけるかという課題が背景にありました。
教育勅語を歴史から考える|全10回シリーズ
この記事でわかること
- 明治政府が全国的な教育制度を必要とした理由
- 知育と徳育をめぐってどのような議論があったのか
- 教育勅語が求められた直接のきっかけ
- 成立当時の目的と後世の運用を分けて考える理由
明治維新後、日本は全国共通の教育を始めた
江戸時代の教育は、藩校、寺子屋、私塾など、身分や地域によって姿が異なっていました。明治政府は廃藩置県によって全国を統一的に治める体制を築くと、1871年に文部省を設置し、翌1872年に「学制」を発布します。
目標は、全国に学校を設け、身分や地域を越えて人々に教育を行き渡らせることでした。これは近代化に必要な人材を育てると同時に、藩の領民だった人々を一つの国家の国民へ結び直す事業でもありました。
ひこまる学校を全国に作れば、それだけで国民の考え方も一つになったの?



そう簡単ではないのじゃ。何を教えるか、とくに道徳をどう教えるかが次の大きな問題になったのじゃよ。
西洋の知識を学ぶ一方で、徳育が問題になった
明治初期の教育では、科学、地理、算術など、西洋から導入された実用的な知識が重視されました。しかし、政府や宮中、地方官のなかには、知識の習得に比べて人の生き方や社会秩序を支える徳育が弱くなっているのではないか、と考える人々もいました。
ここで注意したいのは、「当時の日本人から道徳が失われた」と史実として断定することはできない点です。確認できるのは、急速な制度改革と西洋化のなかで、政府関係者や明治天皇が徳育の方向を定める必要を感じていたことです。
明治天皇も教育の方向を問題にした
1879年には、儒学者の元田永孚が関わった「教学聖旨」が示されました。そこでは、知識や技術に偏らず、仁義忠孝を教育の根本に置くべきだという考えが打ち出されます。
しかし、伝統的な儒教道徳だけを教育の中心に戻せばよい、ということで意見がまとまったわけではありません。西洋の制度や学問を取り入れながら、日本の社会と国家を支える道徳をどう構成するかが問われました。
地方官会議でも徳育の方針が求められた
1880年代後半になると、学校制度は各地へ広がっていました。一方、教育の根本方針が明確でないという意見が地方官から出されます。1889年の地方長官会議では、徳育の基準を国として示すことが建議されました。
翌1890年、芳川顕正文部大臣は、教育上の基礎となる言葉をまとめるよう求められます。当初は「箴言」を編む構想でしたが、やがて天皇の言葉である勅語の形が選ばれました。
近代国家の制度と道徳を結びつける必要があった
1889年には大日本帝国憲法が発布され、1890年には帝国議会が開かれます。政治制度が形を整える一方で、国民教育を支える共通の道徳はまだ定まっていませんでした。
教育勅語は、親子、兄弟姉妹、夫婦、友人といった身近な関係の徳目から、学問、仕事、公益、法令の尊重、国家への奉仕までを一つの文章にまとめました。家族や地域の道徳を、近代国家を支える国民道徳へつなげようとしたのです。



教育勅語は、昔からあった道徳をそのまま書いただけではないんだね。



家族の徳目と近代国家への責任を、一つの筋道に組み直したところが大切なのじゃ。
成立の目的と後世の運用は分けて考える
教育勅語が必要とされた背景を知ることは、後世の運用を正当化することではありません。起草者がどのような文書を目指したかと、学校現場でどのような権威を持ち、戦時期にどう使われたかは、別々に確認する必要があります。
背景をたどると、教育勅語は単なる「古い道徳の復活」ではなく、近代化のなかで新しい国民道徳を作ろうとした文書だったことが見えてきます。
制定された背景から見えること
教育勅語は、全国共通の学校制度が広がるなかで、教育の精神的な基準を示すために作られました。その背景には、西洋化への反応、徳育をめぐる議論、地方官からの要望、立憲国家の形成が重なっています。
教育勅語の全体像については、教育勅語とは?学校が天皇と国民を結びつけた仕組みで紹介しています。
参考資料・参考図書
- 伊藤哲夫『教育勅語の真実』致知出版社、2011年、pp.18–49
- 文部科学省『学制百年史』「明治憲法と教育勅語」
- 文部科学省『学制百五十年史』「文部省の設置」






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