選挙権を持たない人々の行動が、本格的な政党内閣の成立を後押しした
1913年から1918年までの日本政治を考えるうえで、第一次世界大戦、大戦景気、米騒動は別々の出来事ではありません。
第一次世界大戦に参戦した日本は、中国と太平洋で権益を広げました。大戦景気によって輸出と工業生産が伸びる一方、物価も上がり、景気の恩恵を受ける人と生活に苦しむ人の差が目立つようになります。
この変化に対応するため、政党が扱う政策も広がりました。予算、地租、議会制度だけでなく、外交、軍事、対中政策、産業、物価、貧困が政党政治の課題になります。
さらに1918年の米騒動では、国政選挙権を持たない女性、労働者、都市住民も、生活に関わる要求を政府へ示しました。全国へ広がった運動と政府対応への批判は、寺内正毅内閣の退陣を促す大きな圧力になります。その後、衆議院第一党・立憲政友会の総裁である原敬が首相となり、日本で最初の本格的な政党内閣を組織しました。
この5年間には、四つの流れが並行しています。
| 流れ | 主な出来事 | 政治に与えた変化 |
|---|---|---|
| 政党再編 | 立憲同志会、憲政会、立憲政友会 | 政友会系と憲政会系という、後の二大政党につながる系譜が明確になった |
| 外交・軍事 | 第一次世界大戦、対華二十一か条要求、シベリア出兵 | 政党が国内制度だけでなく、外交・戦争・対外権益にも責任を負うようになった |
| 経済・社会 | 大戦景気、物価上昇、貧困問題、米騒動 | 経済成長の利益と負担の分配が、政治の主要な課題になった |
| 思想・政治参加 | 民本主義、天皇機関説、新聞報道、民衆運動 | 明治憲法の枠内で政治参加を広げる議論と、選挙制度外からの政治参加が進んだ |
この記事では、日本政党史の第6回として、大正政変後の1913年から、原敬内閣が成立する1918年までをたどります。
先に押さえたい三つの言葉
この時期を読む前に、民本主義、天皇機関説、本格的政党内閣の意味を区別しておきます。
| 言葉 | 意味 | 誤解しやすい点 |
|---|---|---|
| 民本主義 | 政治の目的を人民の福利に置き、政策決定で民意を尊重しようとする考え | 国民主権と同じではなく、明治憲法の枠内で政治運営を民主化しようとした |
| 天皇機関説 | 国家を法人と考え、天皇を国家の統治権を行使する最高機関と位置づける憲法学説 | 天皇に権限がないとする説ではなく、統治権も憲法上の法秩序に従うと説明した |
| 本格的政党内閣 | 一つの政党が内閣の中心を占め、その政党と衆議院を主要な基盤として運営する内閣 | 1898年の隈板内閣は最初の政党内閣、1918年の原敬内閣は最初の本格的政党内閣と区別される |
民本主義を唱えた吉野作造も、天皇機関説を体系化した美濃部達吉も、天皇制を廃止して共和国を作ろうとしたのではありません。明治憲法の体制を前提としながら、政治を法と民意に基づいて運営しようとしました。
まず流れを確認|1913年から1918年まで
| 年 | 日本史上の主な出来事 | 政党史での意味 |
|---|---|---|
| 1913年 | 第1次山本権兵衛内閣、軍部大臣現役武官制の改正 | 軍人出身の首相も政友会を与党とし、軍が大臣候補を出さないことで内閣を倒す仕組みを弱めた |
| 1914年 | シーメンス事件、第2次大隈内閣、第一次世界大戦への参戦 | 政友会が野党、立憲同志会が与党となり、政党が外交と戦争の責任を担った |
| 1915年 | 対華二十一か条要求、第12回総選挙、大浦事件 | 同志会が第一党となる一方、議員買収と選挙・議会工作の問題が表面化した |
| 1916年 | 吉野作造の民本主義論、憲政会結成、寺内正毅内閣 | 二大政党の系譜が整う一方、首相には第一党総裁ではなく軍人出身の寺内が選ばれた |
| 1917年 | ロシア革命、第13回総選挙、西原借款 | 政友会が第一党へ戻り、外交・金融・社会主義への対応が政治課題になった |
| 1918年 | シベリア出兵、米騒動、寺内内閣退陣、原敬内閣 | 選挙権を持たない人々の運動が政権へ圧力を加え、第一党総裁による本格的政党内閣が成立した |
この表で重要なのは、政党の立場が固定されていないことです。
政友会は、1913年の山本内閣では与党でしたが、1914年の第2次大隈内閣では野党になりました。立憲同志会は大隈内閣を支え、憲政会へ再編されると寺内内閣へ反対します。政友会は寺内内閣と政策ごとに協力しながら、1917年の総選挙で第一党となりました。
政党と内閣の関係は、単純な「軍対政党」では捉えられません。どの内閣が、どの財政状況で、どの政党と協力しているかを確認する必要があります。
1|山本権兵衛内閣は、なぜ政友会と組んだのか
大正政変で第3次桂太郎内閣が倒れた後、1913年2月20日に山本権兵衛が首相となりました。薩摩出身の海軍軍人で、海軍大臣を務めた人物です。
軍人出身の首相でありながら、山本は立憲政友会を与党として内閣を運営しました。
第一次護憲運動は、政党、衆議院、新聞、市民の反対を受けた内閣が、長く政権を維持できないことを示しました。第3次桂内閣は、成立から総辞職まで53日でした。山本は、政友会の協力によって衆議院の基盤を確保する道を選びます。
山本内閣は、軍部大臣現役武官制の現役要件を緩和しました。陸軍大臣と海軍大臣の候補を、現役の大将・中将だけでなく予備役などにも広げられるようにしたのです。
この改正には、前年の第2次西園寺公望内閣総辞職が関係しています。
1900年に山県有朋内閣が整えた制度は、軍が大臣候補を出さないことで内閣の存続へ影響できる仕組みを持っていました。1913年の改正は、その力を弱める制度変更でした。
制度が政治を動かし、政治運動を受けて制度が改められたのです。
2|シーメンス事件で、なぜ山本内閣は退陣したのか
1914年、海軍の艦艇・装備購入をめぐり、ドイツのシーメンス社などの外国企業から日本海軍関係者へのリベート・贈賄疑惑が明らかになりました。シーメンス事件です。
ここでは、山本権兵衛本人の収賄と、内閣の政治責任を区別する必要があります。
山本首相本人が賄賂を受け取ったと判明して退陣したのではありません。問題となったのは、海軍の調達をめぐる癒着でした。山本は長く海軍行政の中心にいたため、海軍全体への批判が内閣へ向かいました。
日露戦争後も軍事費が大きく、国民は税負担を負っていました。そのなかで軍艦購入をめぐる汚職疑惑が起き、新聞、野党、市民による批判と抗議行動が広がります。予算案も貴族院で否決され、1914年3月、山本内閣は総辞職しました。
政友会を与党とし、軍部大臣制度を改めた内閣であっても、汚職、議会、世論の批判を受ければ存続できませんでした。
大正政変後の政治では、どの勢力を与党にしたかだけでなく、新聞報道と世論に対して内閣がどう責任を取るかも問われるようになりました。
3|第2次大隈内閣で、与党と野党はどう入れ替わったのか
1914年4月16日、大隈重信が16年ぶりに首相へ復帰し、第2次大隈内閣を組織しました。
大隈内閣を支えたのは、桂太郎の新党構想を引き継いだ立憲同志会です。政友会は野党へ回りました。
| 1913年の山本内閣 | 1914年の第2次大隈内閣 |
|---|---|
| 立憲政友会が与党 | 立憲同志会が与党 |
| 立憲同志会は新党として出発 | 立憲政友会が野党 |
| 山本権兵衛は海軍出身 | 大隈重信は旧改進党系の政治家 |
ここに、政友会系と同志会系が与野党として争う構図ができました。後の政友会と民政党による二大政党政治につながる出発点です。
同じ1914年、西園寺公望は立憲政友会総裁を辞任し、原敬が第3代総裁に就任しました。原は元老でも華族でもありません。衆議院議員、地方組織、党本部を基盤とする政治家が、政友会の指導者となりました。
外交の主導権をめぐり、内閣と元老が対立した
第2次大隈内閣の外務大臣は、立憲同志会の中心人物である加藤高明でした。外交官、駐英公使、外務大臣を経験し、桂の新党構想へ参加した人物です。
加藤は、外交を外務大臣と内閣の責任で進めようとしました。これに対し、山県有朋、井上馨、松方正義、大山巌ら元老は、重要な外交方針には自分たちも関与すべきだと考えます。
政党を与党とする内閣が成立しても、憲法に規定のない元老の影響力は残っていました。政党政治の発達と元老政治の継続が、同じ時期に存在していたのです。

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