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日本政党史⑥|第一次世界大戦・大戦景気・米騒動

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4|第一次世界大戦で、政党は外交と戦争の責任を担った

1914年7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました。日本は8月23日、ドイツへ宣戦布告します。

参戦の背景に日英同盟があったことは確かです。ただし、同盟があったため自動的に参戦したと考えると、日本政府の判断を捉えられません。

日本政府は、ドイツの東アジア・太平洋権益を排除し、日本の国際的な立場を強める機会とも考えました。日英同盟上の関係と、日本自身の外交・権益上の判断が重なっていたのです。

日本軍はイギリス軍の一部とともに、中国・山東半島の青島を攻撃し、1914年11月にドイツ軍を降伏させました。さらに、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領します。日本の影響圏は、中国大陸から太平洋へ広がりました。

詳しい戦争の経過と国内への影響は、第一次世界大戦と日本とは?社会はどう変わったのかで確認できます。

対華二十一か条要求で、中国への権益拡大を求めた

1915年1月18日、第2次大隈内閣は、中国の袁世凱政権へ対華二十一か条要求を示しました。外務大臣は加藤高明です。

欧州列強が東アジアへ十分な力を向けにくい状況を利用し、中国における日本の権益を広げようとしました。

区分主な要求
第1号山東省にあったドイツ権益を日本が継承すること
第2号南満州・東部内蒙古における日本の権益を拡大すること
第3号漢冶萍公司を日中合弁とすること
第4号中国沿岸を他国へ譲渡しないこと
第5号政治・財政・警察・軍事などへ日本人顧問を置くことなど

「中国が二十一か条をすべて受け入れた」と説明するのは正確ではありません。

第5号は、中国の政治と主権へ深く関わる内容であり、強い反発を受けました。日本政府は交渉終盤に第5号関係の要求を大部分削除し、5月7日に最後通牒を出します。中国政府は5月9日に受諾しました。

5月9日は、中国で日本から圧力を受けた日として記憶され、1919年の五・四運動へつながる対日認識を考えるうえでも重要な日となりました。

この外交を主導した加藤高明は、立憲同志会の指導者でした。

政党が政府を担うとは、国内の税と予算を決めるだけではありません。外交、戦争、植民地、対外権益にも責任を負うことを意味しました。第一次世界大戦は、政党が扱う政策領域を広げたのです。

対華二十一か条要求の内容と中国側の反発は、対華二十一か条要求とは?日本外交の転換点で詳しく読めます。

5|1915年総選挙と大浦事件は、議席をめぐる何を示したのか

第2次大隈内閣は、陸軍の2個師団増設を進めました。政友会はこれに反対します。

1912年に第2次西園寺内閣で2個師団増設が問題になったときも、政友会は増設へ反対しました。ただし1914年から1915年には、増設を進める側が立憲同志会を与党とする内閣へ変わっています。

時期増設をめぐる構図政友会の立場
1912年陸軍が政友会内閣へ要求反対
1914〜1915年同志会を与党とする大隈内閣が推進反対

ここから分かるのは、政策への賛否を「陸軍対政党」という固定した対立で説明できないことです。同じ政党でも、内閣との関係、財政状況、他党との競争によって判断が変わります。

大隈内閣は衆議院と対立すると、議会を解散しました。1915年3月の第12回総選挙では、立憲同志会が第一党となり、政友会は議席を減らします。内閣が総選挙によって、自らの議会基盤を強めたのです。

ところが同じ1915年、大浦事件が明らかになります。

内務大臣などを務めた山県系の官僚・政治家である大浦兼武が、2個師団増設案などを議会で通すため、政友会議員を金銭で切り崩そうとした疑惑です。大浦は政界を退きました。

議員数が法律と予算の可否を決めるようになると、政府にとって何人の議員を味方につけられるかが重要になります。そのため、正当な政策協議と、買収・利権による議員工作の境界が大きな政治問題になりました。

議会政治の発達は、選挙で議席を争う仕組みだけでなく、議員と政府の関係をどう公正に保つかという課題も生みました。

6|大戦景気は、なぜ貧困と物価を政治課題にしたのか

第一次世界大戦は、日本経済を大きく変えました。

ヨーロッパ諸国の生産とアジア向け輸出が低下すると、日本企業はアジア市場への輸出を伸ばしました。輸入に頼っていた製品の国内生産も進みます。

海運、造船、繊維、鉄鋼、化学、機械などの産業が成長し、日本は大戦景気を迎えました。海運、貿易、株式などで大きな利益を得た人は「成金」と呼ばれます。

しかし、景気の恩恵がすべての人へ同じように及んだわけではありません。

輸出と工業生産が増える
↓
企業利益と投資が増える
↓
都市人口と労働者が増える
↓
物価が上がる
↓
賃金の上昇が物価に追いつかない家庭が増える
↓
貧困・物価・分配が政治課題になる

戦争と景気によって利益を得た人がいる一方、物価上昇で生活が苦しくなる労働者や俸給生活者もいました。国全体の経済が成長しているのに、なぜ貧困がなくならないのかが問われます。

河上肇は1916年、『大阪朝日新聞』に連載した内容をもとに『貧乏物語』を刊行しました。社会に多くの富があるにもかかわらず、貧困が続く理由を論じたものです。

政治の主要な課題は、憲法と議会を作ることから、経済成長の利益と負担をどう分けるかへ広がりました。第一次世界大戦が日本の経済と暮らしへ与えた影響は、第一次世界大戦が日本に与えた影響|なぜ経済は成長し、社会は揺れたのかで詳しく確認できます。

7|民本主義と天皇機関説は、何を変えようとしたのか

経済と社会が変化するなかで、明治憲法の体制をどのように運用するかも議論されました。

1916年、政治学者の吉野作造は、『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表します。吉野が唱えた民本主義は、政治の目的を人民の福利に置き、民意を政策へ反映させようとする考えでした。

当時の国政選挙権は、一定額以上の直接国税を納める男子に限られていました。吉野は普通選挙、政党政治、民意の尊重を重視します。

憲法学者の美濃部達吉が体系化した天皇機関説は、国家を一つの法人とし、天皇を国家の最高機関として位置づけました。天皇の統治権も、憲法上の法秩序のなかで行使されると説明する学説です。

民本主義天皇機関説
政治の目的と運用を民意へ近づける統治権を憲法上の法秩序で説明する
普通選挙と政党政治を重視する天皇を国家の最高機関と位置づける
主権の所在を直接の論点としない天皇の権限を否定する説ではない

両者に共通するのは、明治憲法の体制を廃止するのではなく、憲法、議会、政党、民意を組み合わせ、政治運営を民主化しようとした点です。

これは、国家と天皇制の廃止を含む革命を目指す社会主義・無政府主義の一部とは、異なる改革の方法でした。同じ社会への問題意識があっても、制度の内側から改めるのか、制度そのものを変えるのかで立場が分かれていたのです。

吉野作造の考えと生き方は、吉野作造とは?民本主義を唱えた思想家で詳しく読めます。

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