8|憲政会が結成されても、なぜ政党内閣にならなかったのか
1916年10月10日、立憲同志会に中正会などが加わり、憲政会が結成されました。初代総裁は加藤高明です。
立憲同志会の単純な名称変更ではありません。立憲同志会を中心に複数の勢力が合流してできた政党です。ただし、加藤の指導と組織の中心が引き継がれたため、政党系譜では連続して捉えられます。
| 系譜 | 1916年までの流れ | 中心人物 |
|---|---|---|
| 旧自由党系 | 自由党 → 憲政党 → 立憲政友会 | 原敬 |
| 同志会・憲政会系 | 桂の新党構想 → 立憲同志会 → 憲政会 | 加藤高明 |
二大政党につながる系譜は整いました。それでも、衆議院第一党の総裁が首相になる慣行は、まだ定着していませんでした。
第一党総裁ではなく、寺内正毅が首相になった
憲政会結成の前日、第2次大隈内閣の後を受けて1916年10月9日に首相となったのは寺内正毅でした。長州出身の陸軍軍人で、陸軍大臣、韓国統監、初代朝鮮総督を務めた人物です。
寺内内閣は、特定の衆議院政党を直接の基盤とせず、「不偏不党・挙国一致」を掲げる非政党内閣として出発しました。
大隈重信は後継首相として加藤高明を望んでいました。加藤は、衆議院第一党となっていた勢力を率いる政治家です。しかし元老が推薦し、天皇から組閣を命じられたのは寺内でした。
大正政変を経ても、衆議院第一党と首相選定は直結していませんでした。元老の推薦と天皇の大命によって首相が決まる慣行が続いていたのです。
憲政会は寺内内閣へ反対しました。一方、原敬が率いる政友会は、政策ごとに寺内内閣へ協力する現実的な対応を選びます。
1917年の第13回総選挙では、政友会が第一党となり、憲政会は議席を減らしました。原は非政党内閣と協力しながら、次の政権を担える議会基盤を作ったことになります。
西原借款は、金融を使った対中政策だった
寺内内閣は、中国の北京政府、とくに段祺瑞政権との関係を強めようとしました。その手段となったのが西原借款です。
寺内と親しかった西原亀三を通じ、1917年から1918年にかけて、中国側へ多額の資金を貸し付けました。
借款は、政治家個人への寄付ではありません。国家、金融機関、外国政府を結ぶ融資であり、外交政策です。
日本の対外政策は、軍事行動と条約だけでなく、金融と経済によっても進められました。
9|ロシア革命とシベリア出兵は、国内政治へどう影響したのか
1917年、ロシアで革命が起こりました。3月には皇帝ニコライ2世が退位し、11月にはボリシェヴィキがソビエト政権を作ります。
日本への影響は二つありました。
政府は、ロシアの政治混乱がシベリアや満州方面へ及ぶことを警戒しました。一方、日本の社会主義者は、社会主義革命が現実に起きたことから強い思想的な刺激を受けます。外交・安全保障と国内思想の両方が動いたのです。
ソビエト政権が第一次世界大戦から離脱する姿勢を示すと、イギリスとフランスは、ドイツが東部戦線の兵力を西部へ移すことを警戒しました。連合国の間で、シベリアへの軍事介入が検討されます。
1918年8月2日、日本政府はシベリア出兵を発表しました。
寺内内閣が最初から出兵へ積極的だったと考えることはできません。積極論を主張したのは外務大臣の本野一郎らであり、寺内正毅らは当初慎重でした。その後、アメリカがチェコスロバキア軍救援を目的とする共同出兵の方針を示したことを受け、日本も出兵へ進みます。
軍人出身の首相だから、初めから軍事行動を望んでいたと説明すると、政府内部の意見の違いを見落とします。軍、政府、元老、外務省をそれぞれ一つの意思で動く集団として扱わず、誰が何を主張したかを見る必要があります。
そして、シベリア出兵をめぐる予想と準備が、国内の米価へ影響しました。

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