一度成立した政党内閣は、制度として定着していなかった
1918年、衆議院第一党・立憲政友会の総裁である原敬が首相となり、日本で最初の本格的な政党内閣を組織しました。
しかし、これで「総選挙で第一党となった政党の党首が首相になる」という仕組みが確立したわけではありません。原の暗殺後、高橋是清が政友会内閣を引き継いだものの、党内をまとめられずに退陣します。その後は、加藤友三郎、第2次山本権兵衛、清浦奎吾という、衆議院政党を直接の基盤としない三つの内閣が続きました。
原内閣は、政党内閣が運営できることを示しました。一方、その継続は、原が築いた党組織、地方との関係、官僚との調整、政府有力者との交渉に大きく支えられていました。原を失うと、政友会の指導者争いが表面化します。
1924年、貴族院の研究会を主な基盤とする清浦内閣が成立すると、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部は「護憲三派」を組みました。三党は政策も政党系譜も異なりましたが、衆議院の政党を基盤とする内閣を求める点で協力します。
そして今回は、街頭の反対運動だけで内閣が倒れたのではありません。衆議院解散後の総選挙で護憲三派が多数を占め、その結果を受けて清浦内閣が退陣し、憲政会総裁・加藤高明の内閣が成立しました。
この6年間には、四つの流れが並行しています。
| 流れ | 主な出来事 | 政党政治に与えた変化 |
|---|---|---|
| 政党内閣と党組織 | 原内閣、原敬暗殺、高橋内閣、政友会分裂 | 一人の指導者に依存せず、党内をまとめて政権を維持する力が問われた |
| 政治参加 | 普通選挙運動、新婦人協会、労働運動 | 納税資格を持つ男性だけを前提とした政治制度の限界が問われた |
| 外交と植民地統治 | パリ講和会議、三・一独立運動、五・四運動、ワシントン会議 | 日本の外交上の利益を、相手社会と国際秩序の双方から考える必要が生じた |
| 経済と社会 | 戦後恐慌、関東大震災、震災手形 | 政党は景気、失業、金融、救援、復興にも責任を負うようになった |
この記事では、日本政党史の第7回として、1918年の原敬内閣から1924年の第二次護憲運動までをたどります。
先に押さえたい五つの言葉
この時期は、同じ「政党政治」という言葉を使っても、衆議院、貴族院、選挙権、内閣の基盤がそれぞれ異なります。まず五つの用語を区別します。
| 言葉 | 意味 | 注意点 |
|---|---|---|
| 普通選挙 | 財産や納税額を選挙資格としない選挙 | 当時の運動と1925年の制度は成人男性を対象とし、女性参政権は実現していない |
| 中間内閣 | 政党内閣と政党内閣の間に成立した非政党内閣を指す歴史上の呼び方 | 憲法上の正式名称ではない。本稿では加藤友三郎、第2次山本権兵衛、清浦奎吾の三内閣を指す |
| 特権内閣 | 清浦内閣を批判した側が用いた呼び方 | 中立的な制度名ではなく、貴族院や枢密院を基盤とする内閣への批判を含む |
| 研究会 | 貴族院の有力会派 | 学術団体ではない。官僚出身者や政府との関係が深い議員を含み、清浦内閣の主要な基盤となった |
| 護憲三派 | 憲政会、立憲政友会、革新倶楽部 | 三党が一つの政党へ合併したのではなく、政党内閣を求めて協力した連合 |
普通選挙を「すべての成人が投票できる制度」と説明すると、当時の女性が除外されていた事実が見えにくくなります。また、清浦内閣を考えるときは衆議院だけでなく、貴族院、枢密院、元老が首相選定と内閣運営に関わっていたことも確認する必要があります。
まず流れを確認|1918年から1924年まで
| 年 | 日本史上の主な出来事 | 政党史での意味 |
|---|---|---|
| 1918年 | 原敬内閣成立 | 政友会と衆議院を主要な基盤とする本格的政党内閣が成立した |
| 1919年 | 衆議院議員選挙法改正、パリ講和会議、三・一独立運動、五・四運動 | 選挙権が拡大する一方、外交と植民地統治への批判が強まった |
| 1920年 | 第14回総選挙、戦後恐慌、新婦人協会発会 | 政友会が多数を確保する一方、経済政策と女性の政治参加が課題になった |
| 1921年 | 原敬暗殺、ワシントン会議、高橋是清内閣 | 原の後継者と政友会の統率が問われた |
| 1922年 | 高橋内閣退陣、加藤友三郎内閣、女性の政治集会参加を認める法改正 | 本格的政党内閣が途切れ、非政党内閣が始まった |
| 1923年 | 加藤友三郎死去、関東大震災、第2次山本内閣、虎ノ門事件 | 救援、治安、復興、金融、警備責任が内閣の課題になった |
| 1924年 | 清浦内閣、政友本党結成、第二次護憲運動、第15回総選挙、加藤高明内閣 | 総選挙の結果が政党内閣の成立へ結びつき、政党内閣が政治上の慣行となった |
1|原敬内閣は、政友会の力をどのように政策へ結びつけたのか
原敬内閣を支えた立憲政友会は、衆議院議員の集まりだけではありませんでした。地方支部、地方議員、地主、地域の有力者、実業家などとの関係を持ち、各地の要求を国の予算と政策へつなぐ組織でした。
原内閣は、政友会が掲げた四大政綱を進めます。
| 政策分野 | 主な内容 | 地方と国にとっての意味 |
|---|---|---|
| 教育 | 高等教育機関の拡充など | 人材育成と進学機会を広げる |
| 交通 | 鉄道、道路、港湾の整備 | 人と物資の移動を増やし、地域経済を国の市場へ結ぶ |
| 産業 | 産業振興と経済基盤の整備 | 第一次世界大戦後の産業発展を支える |
| 国防 | 軍備の整備 | 国際環境の変化へ対応する |
鉄道や港湾の整備は、政友会支持者の地域へ予算を配る「利益誘導」として批判されました。政権党が予算、官職、公共事業へ影響できるようになれば、党の利益と公共の利益が区別できているかが問われます。
ただし、すべてを選挙目当てのばらまきとして説明するのも適切ではありません。工業化と都市化が進む日本では、学校、鉄道、港湾、道路が必要でした。地域開発を求める地方の声を、政党が国政へ反映した面もあります。
政党が政府を担当するようになったからこそ、民意を政策へ反映する役割と、権力を支持基盤のために使う危険が同時に現れました。
2|原敬は、なぜ普通選挙をすぐに実施しなかったのか
原内閣は1919年、衆議院議員選挙法を改正しました。選挙権に必要な直接国税の納税額は、10円以上から3円以上へ引き下げられます。選挙区は、原則として小選挙区制になりました。この改正から1925年の男子普通選挙までの経過は、普通選挙法とは?誰が、なぜ政治に参加できるようになったのかで詳しく確認できます。
有権者は増えましたが、納税資格は残りました。一定額の税を納められない男性と、すべての女性は国政選挙から除外されたままです。
原は、選挙権の拡大そのものを一切拒んだのではありません。しかし、納税資格を直ちに撤廃する普通選挙には慎重でした。争点は「選挙権を広げるか、広げないか」という二択だけでなく、どの時点で、どこまで、どの方法で広げるかにありました。
この判断には、国会開設を決めながら実施まで10年を置いた1881年の国会開設の勅諭と共通する面があります。政府は要求の方向を一部受け入れながら、時期と制度設計を管理しようとしました。
日比谷から、選挙権を持たない人々が普通選挙を求めた
1919年3月1日、東京の日比谷で普通選挙を求める大規模な集会と行進が行われました。納税資格を満たさず投票できない人々が、自分たちを政治の外へ置く制度の変更を求めたのです。
普通選挙を求める野党と原内閣の対立が続くなか、原は1920年2月に衆議院を解散しました。5月の第14回総選挙で政友会は勝利し、衆議院で多数を占めます。
| 原内閣の選択 | 意味 |
|---|---|
| 納税資格を10円から3円へ引き下げる | 有権者を拡大する |
| 納税資格を撤廃しない | 成人男性普通選挙には踏み込まない |
| 衆議院を解散する | 普通選挙をめぐる対立を総選挙へ持ち込む |
| 政友会が勝利する | 現行制度の有権者から政権基盤を確認する |
小選挙区制は、地方組織と有力候補を持つ政友会に有利だったと評価されます。ただし、選挙制度だけで勝敗が決まったわけではありません。政友会の地方組織、候補者、公共事業、政府与党としての実績、野党の状況も結果に関わりました。
原が総選挙で多数を得ても、選挙権を持たない人々の要求が消えたわけではありません。現行制度の有権者から得た多数と、制度の外にいる人々が求める参加拡大の間に、隔たりが残りました。
3|パリ講和会議で、日本は何を求めたのか
1919年、第一次世界大戦の講和条件と戦後秩序を決めるため、パリ講和会議が開かれました。日本は戦勝国として参加し、西園寺公望が首席全権、牧野伸顕が実務上の中心となりました。代表団には、後に外交や政治を担う吉田茂、松岡洋右、芦田均、近衛文麿らも加わっています。
日本の主な課題は、次の三つでした。
| 課題 | 日本側の要求 | 結果と注意点 |
|---|---|---|
| 山東問題 | ドイツが中国・山東省に持っていた権益の継承 | 講和条約では日本の権益継承が認められ、中国の反発を招いた。後にワシントン会議期の交渉で主要権益を返還した |
| 南洋諸島 | 赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の確保 | 国際連盟の委任統治領となった。日本領への単純な編入ではない |
| 人種差別撤廃 | 国際連盟規約へ人種平等・公正待遇の原則を盛り込む | 委員会出席者16名中11名が支持したが、議長ウィルソンが全会一致を必要と判断し、採用されなかった |
日本の外交を、領土と権益の拡大だけで説明することはできません。移民排斥などを背景に、人種的な差別を国際秩序の問題として取り上げた面もありました。
同時に、山東問題では中国の主権と民意より、日本が大戦中に得た権益を優先しました。平等を求める外交と、中国・朝鮮に対する支配や権益拡大が同じ政府の政策として並んでいたのです。
日本は1920年に発足した国際連盟の原加盟国となり、常任理事国を務めました。日英同盟のような二国間関係に加え、国際連盟や国際会議を通じて問題を扱う多国間外交へ参加します。

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