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日本政党史⑦|原敬内閣から第二次護憲運動まで

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4|三・一独立運動と五・四運動は、日本の政策をどう見たのか

パリ講和会議では、アメリカ大統領ウィルソンが唱えた民族自決が注目されました。しかし、その原則がすべての植民地へ同じように適用されたわけではありません。

三・一独立運動と「文化政治」

1919年3月1日、京城などで朝鮮の独立を求める宣言とデモが行われ、運動は朝鮮各地へ広がりました。日本の警察、憲兵、軍は運動を鎮圧し、多数の死傷者と逮捕者が出ました。

三・一独立運動の後、朝鮮総督府は統治方法を改めました。

憲兵が一般警察を担う憲兵警察制度
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三・一独立運動と内外からの批判
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憲兵警察制度を廃止する
↓
文官も総督になれる制度へ改める
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言論・社会活動の一部を以前より広く認める「文化政治」へ

ただし、これを植民地支配の終了と捉えることはできません。文官総督が制度上は可能になっても、実際には武官が総督に就きました。警察署と警察官の数も増えています。統治方法の変更と、支配関係の解消は別の問題です。

五・四運動と山東問題

同年5月4日、北京の学生が、山東省の旧ドイツ権益を中国へ返還することや、対華二十一か条要求に関わった政治家の処罰などを求めて行動しました。運動は商人、労働者、各地の都市へ広がります。

中国側から見れば、第一次世界大戦でドイツが敗れたにもかかわらず、山東の権益は中国へ返されず、日本へ移されたことになります。

1915年 日本が対華二十一か条要求を出す
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1919年 日本が山東の旧ドイツ権益継承を求める
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パリ講和会議が日本の権益継承を認める
↓
中国で五・四運動が広がる

対華二十一か条要求を主導した加藤高明は、憲政会を率いる政党政治家でもありました。政党政治家だから、相手国の民意を重視する外交を行うとは限りません。

外交政策を評価するときは、日本政府が何を得たかだけでなく、その政策が朝鮮や中国の人々にどう受け止められ、どのような運動を引き起こしたかも見る必要があります。

5|女性・労働者・共産主義運動は、政治参加をどう広げたのか

普通選挙運動が盛んになっても、その中心は男性の選挙権でした。女性、労働者、社会主義者は、それぞれ異なる立場から政治と社会の仕組みを変えようとしました。

女性は、政治集会への参加を求めた

1900年に制定された治安警察法第5条は、女性が政治上の結社へ加入することや、政談集会へ参加することを禁じていました。

1919年、平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらは新婦人協会の設立を進めます。同協会は、女性の地位向上とともに、治安警察法第5条の改正を求めました。

運動の結果、1922年の法改正で、女性は政治演説や政談集会へ参加できるようになります。しかし、政治結社への加入はなお禁じられ、選挙権も認められませんでした。

1922年改正で変わったこと変わらなかったこと
女性が政治演説・政談集会へ参加できる政治結社へ加入できない
政治の議論を聞き、参加する機会が広がる国政選挙で投票できない

男性普通選挙の実現と女性参政権の実現は、同じ時期には達成されませんでした。政治参加が広がる過程にも、性別による差が残っていたのです。

労働問題が国内政治と国際政治の課題になった

第一次世界大戦期には工業化が進み、工場や鉱山で働く人が増えました。大戦景気で企業利益が伸びる一方、物価上昇、長時間労働、低賃金、劣悪な職場環境への不満も強まります。

鈴木文治らが1912年に組織した友愛会は、労働争議や労働条件の改善へ活動を広げ、1921年に日本労働総同盟と改称しました。名称の変化には、相互扶助を重視する団体から、労働者の要求を組織して交渉する労働組合へ性格を強めた経過が表れています。

1919年には、ヴェルサイユ条約に基づいて国際労働機関(ILO)が設立され、日本も原加盟国となりました。賃金、労働時間、失業、団結といった問題は、一企業と労働者だけの問題ではなく、政府と国際社会が扱う課題になりました。

議会の外から、社会制度そのものを変えようとする動きもあった

ロシア革命の影響を受け、日本でも共産主義運動が組織されます。日本共産党の結成年には1921年説と1922年説がありますが、一般には1922年に堺利彦、山川均、近藤栄蔵、高津正道らによって秘密裏に組織されたとされます。コミンテルンとも関係を持ちました。

政友会や憲政会は、明治憲法の制度内で議席を得て政権を担当しようとする合法政党です。これに対し、日本共産党は資本主義と国家体制の根本的な変更を目指し、非合法の秘密組織として活動しました。

同じ時期に、議会を通じて政府を担当する政党、選挙権を求める運動、労働条件を交渉する組合、社会制度の変更を目指す運動が並存していました。

6|戦後恐慌は、政党にどのような責任を加えたのか

第一次世界大戦中、ヨーロッパ諸国の生産と輸出が低下したことで、日本の輸出と工業生産は伸びました。企業の新設と設備投資が進み、株式や商品への投機も広がります。

しかし戦争が終わり、ヨーロッパ諸国が生産と輸出を回復すると、日本企業は再び競争へ直面しました。輸出が減り、在庫と生産設備が過剰になります。

1920年3月には株価が暴落し、企業の破綻、銀行不安、失業が広がりました。戦後恐慌です。経済面の詳しい経過は、戦後恐慌(1920)とは?なぜ不況になったのかで確認できます。

第一次世界大戦でヨーロッパの生産・輸出が低下する
↓
日本の輸出・生産・投資が増える
↓
株式と商品への投機も広がる
↓
戦後にヨーロッパの生産が回復する
↓
日本の輸出減少・過剰生産・価格下落
↓
株価暴落・企業破綻・銀行不安・失業

政党が政府を担当する以前は、自由民権、憲法、議会、予算が政党史の中心課題でした。原内閣の時代には、景気、雇用、企業救済、銀行の安定も政権の評価を左右するようになります。

選挙で勝ち、衆議院の多数を持つだけでは政権を維持できません。経済の変動にどう対応し、救済の負担を誰が負うかを説明する責任も加わりました。戦後恐慌で処理し切れなかった問題は、関東大震災と震災手形を経て、1927年の金融恐慌へつながります。

7|原敬暗殺で、なぜ政党内閣の継続が難しくなったのか

1921年11月4日、原敬は立憲政友会近畿大会へ向かうため東京駅に到着したところ、中岡艮一に襲われて死亡しました。現職首相の暗殺は、日本の憲政史上初めてのことでした。

中岡は、政友会が党の利益を優先していることや、原が普通選挙の即時実施に慎重であることへ不満を持っていました。ただし、暗殺を一つの政策だけで説明することはできません。

当時は、公共事業、官職、選挙をめぐって政友会の「党利党略」「利益政治」を批判する声がありました。普通選挙を求める運動との対立も続いています。実行者個人の考えと、社会に広がっていた政党批判を区別しながら見る必要があります。

原の死が政党政治へ与えた影響は、首相一人を失ったことにとどまりません。

原は、次の関係を調整していました。

政友会総裁・原敬
├─ 党本部と地方支部
├─ 衆議院議員と地方の支持者
├─ 閣僚と官僚
├─ 政党と貴族院
└─ 政党と元老・政府有力者

原の暗殺後、高橋是清、床次竹二郎、中橋徳五郎、元田肇、山本達雄、横田千之助らの対立が強まります。

1918年の政党内閣は、憲法や法律で義務づけられたものではありませんでした。「衆議院第一党の党首を首相にする」という確立した慣行もありません。原の調整力が失われると、政友会は多数党でありながら、政権を安定して運営することが難しくなりました。

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