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日本政党史⑦|原敬内閣から第二次護憲運動まで

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8|高橋是清内閣は、なぜ多数党でも退陣したのか

原の後を受け、政友会総裁と首相になったのが高橋是清です。

高橋は日本銀行総裁、大蔵大臣を経験し、日露戦争では外債募集に携わった金融・財政の専門家でした。原内閣でも大蔵大臣を務めています。

高橋内閣は原内閣の閣僚と政策を引き継ぎました。しかし、政友会内では内閣改造、人事、党運営をめぐる対立が収まりませんでした。高橋は金融と財政には通じていても、原と同じ方法で党内の各派を調整できたわけではありません。

政権を維持する条件高橋内閣で表れた問題
衆議院の議席政友会は多数を持っていた
政策原内閣の政策を継続しようとした
党組織総裁をめぐる合意と党内統制が弱かった
人事調整内閣改造と役職配分をめぐる対立が続いた

話し合いはまとまらず、高橋内閣は1922年6月に総辞職します。

1898年の隈板内閣も、旧自由党系と旧進歩党系の人事対立によって短期間で崩壊しました。政党内閣を続けるには、総選挙で議席を得るだけでなく、党内の指導者、政策、人事、意思決定をまとめる組織が必要です。

9|ワシントン体制は、日本にとって制約だけだったのか

1921年11月から1922年2月まで、アメリカのワシントンで、海軍軍備、太平洋、中国をめぐる国際会議が開かれました。日本の首席全権は海軍大臣の加藤友三郎です。

加藤は八八艦隊計画を進めてきた海軍軍人でしたが、会議では軍縮を受け入れました。軍人であることと、常に軍備拡張を求めることは同じではありません。

取り決め主な内容日本への影響
海軍軍備制限条約主力艦保有比率を米5・英5・日3などと定める海軍内には対米英7割を求める声があり不満も残ったが、建艦費を抑えられた
四カ国条約米・英・日・仏が太平洋の島嶼領土を尊重し、問題発生時に協議する日英同盟を終了させ、多国間協議へ移した
九カ国条約中国の主権・独立・領土的行政的保全、門戸開放、機会均等を確認する中国での行動を国際的な原則に沿って調整することが求められた
山東懸案解決条約日本と中国の直接交渉で山東の主要権益を中国へ返還するパリ講和会議で認められた権益の一部が再調整された

ワシントン体制を、アメリカやイギリスが日本だけを押さえつけた仕組みとして説明すると、日本側の判断が見えません。日本政府には、建艦競争による財政負担を抑え、アメリカ・イギリスとの対立を緩和し、国際協調のなかで地位を保つ利点がありました。

一方、海軍比率への不満や、日英同盟終了への警戒もありました。軍縮は、日本にとって制約と利益の両方を持つ選択でした。

また、パリ講和会議で得た山東権益は、五・四運動、中国側の要求、アメリカなどの意向、国際会議での交渉によって返還へ向かいました。一度条約で認められた権利も、相手社会の反対と国際環境によって再調整されます。

10|なぜ三つの中間内閣が続いたのか

高橋内閣の退陣後、衆議院の政党総裁ではない人物を首相とする内閣が三つ続きました。これらは、政党内閣の間に置かれた中間内閣と呼ばれます。

内閣在職時期主な基盤と課題
加藤友三郎内閣1922年6月〜1923年8月海軍・官僚・貴族院を基盤とし、軍縮、シベリア撤兵、陸軍整理を進める
第2次山本権兵衛内閣1923年9月〜1924年1月関東大震災への救援・復興を担い、虎ノ門事件後に退陣する
清浦奎吾内閣1924年1月〜6月枢密院・貴族院研究会を主要な基盤とし、第二次護憲運動の対象となる

加藤友三郎内閣|軍人首相が軍縮を実施した

加藤友三郎内閣は、ワシントン海軍軍縮条約を実施し、シベリアからの撤兵を進めました。陸軍でも山梨半造陸相のもとで兵力整理が行われます。

軍人出身の首相を、軍備拡張だけで捉えることはできません。財政負担、国際協調、軍の再編を考え、軍縮を実施する場合もありました。

政友会は、加藤内閣の外側から協力しました。非政党内閣に反対してすぐ倒そうとしたのではなく、憲政会へ政権が移ることを防ぐため、政策と政党間競争を考えて支持したのです。

普通選挙について、加藤内閣は調査を進め、将来の必要性を認める姿勢を示しました。憲政会は普通選挙運動を進めます。争点は次第に「普通選挙を行うか」から「いつ、どのような制度で行うか」へ移りました。

加藤友三郎は1923年8月24日、首相在任中に死去します。

第2次山本権兵衛内閣|組閣中に関東大震災が起きた

加藤の死後、山本権兵衛が組閣を命じられました。山本が閣僚人事を進めていた1923年9月1日、関東大震災が発生します。第2次山本内閣は翌2日に成立し、救援と復興を最優先で担うことになりました。

この三つの内閣が成立できたのは、衆議院第一党の党首を首相にする法的な規定も、確立した慣行もなかったためです。首相は元老の推薦を経て天皇が任命し、貴族院、枢密院、官僚、軍も内閣の基盤になり得ました。

11|関東大震災は、政治と社会のどの課題を示したのか

1923年9月1日の関東大震災は、東京、横浜をはじめ南関東へ大きな被害を与えました。建物の倒壊だけでなく、同時多発した火災が被害を拡大し、交通、通信、上下水道、行政、金融の機能が損なわれます。

震災は、救援と復興だけでなく、治安、人権、情報、金融を政治課題にしました。

流言と殺傷|情報の混乱が暴力へつながった

通信と新聞の機能が低下するなか、「朝鮮人が放火した」「井戸へ毒を入れた」などの根拠のない流言が広がりました。自警団、民間人、軍隊、警察の一部によって、朝鮮人、中国人、朝鮮人と誤認された日本人が殺傷されます。

被害者数には資料と研究による違いがあるため、一つの数字だけで断定することはできません。しかし、流言を背景とする殺傷が起き、軍と警察の一部も関与したことは、公的な調査報告でも確認されています。

混乱のなかでは、憲兵が大杉栄、伊藤野枝らを殺害した甘粕事件や、軍・警察が労働運動・社会運動の関係者らを殺害した亀戸事件も起きました。

通信・報道機能が損なわれる
↓
根拠のない情報が広がる
↓
行政・警察・軍も正確な情報を共有できない
↓
自警団の結成と人々への尋問が広がる
↓
朝鮮人、中国人、日本人への殺傷が起きる

災害時の秩序維持は必要です。しかし、治安を理由に根拠のない情報を広めたり、特定の人々を危険視したり、法によらない暴力を認めたりすれば、国家と社会が被害を拡大させます。

大逆事件、米騒動期の報道統制、白虹事件と同じく、政治参加と報道が広がる一方で、政府が治安を理由に思想と行動を制限する動きも続いていました。

震災手形|救済策が後の金融不安へつながった

工場、商店、倉庫、住宅が焼失し、企業と個人は支払いが難しくなりました。政府と日本銀行は、支払猶予、資金供給、震災手形の再割引などで金融不安を抑えようとします。

これらは震災直後の連鎖倒産を防ぐための措置でした。しかし、返済の見込みが低い債権も震災手形として処理され、問題が先送りされます。1927年には、震災手形の処理をめぐる不安が金融恐慌の要因になります。

復興計画|都市をどう作り直すかが政治課題になった

内務大臣・帝都復興院総裁の後藤新平は、道路、公園、橋梁、土地区画整理などを含む帝都復興計画を進めました。当初構想は財政上の理由などで縮小されましたが、現在の東京の幹線道路、公園、橋などにつながる事業が実施されます。

復興には大きな予算が必要です。どの地域を優先し、どこまで公費を使い、土地と住宅をどう再建するかは、内閣、官僚、議会、地方自治体、住民が関わる政治問題でした。

虎ノ門事件で山本内閣が退陣した

1923年12月27日、摂政宮裕仁親王が虎ノ門付近で難波大助に狙撃されました。弾は命中せず、摂政宮は無事でした。

第2次山本内閣は、警備責任を取って総辞職します。震災発生直後に成立した内閣は、約4か月で退陣しました。

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