12|政友会は、なぜ政友本党へ分裂したのか
山本内閣の後継として、1924年1月に清浦奎吾が首相となりました。清浦は司法官僚、司法大臣、内務大臣、農商務大臣、枢密院議長などを務めた人物で、満73歳(数え年75歳)で組閣しました。
清浦内閣は貴族院の研究会を主要な基盤とし、政党員を閣僚に入れませんでした。
清浦内閣へどう対応するかをめぐり、政友会の対立は決定的になります。
| 政友会内の立場 | 主な人物 | 清浦内閣への姿勢 |
|---|---|---|
| 高橋是清側 | 高橋是清、横田千之助ら | 清浦内閣へ反対し、政党内閣を求める |
| 床次竹二郎側 | 床次竹二郎、山本達雄、中橋徳五郎、元田肇ら | 清浦内閣との協力・支持へ傾く |
床次らは政友会を離れ、1924年1月29日に政友本党を結成しました。政友本党は、政友会の名称変更ではなく、政友会から分かれた別の政党です。
分裂の直接の争点は清浦内閣への対応でした。しかし、その背景には原の死後から続く総裁候補、人事、役職、内閣との距離、党運営をめぐる対立がありました。
1898年の憲政党も、板垣退助系と大隈重信系の閣僚人事をめぐる争いから分裂しました。政党分裂では政策や理念だけでなく、「誰が党と内閣を指導するか」「誰を閣僚と役職へ就けるか」が繰り返し大きな要因になっています。
ただし、すべての政党分裂を人事だけで説明することはできません。今回の政友会分裂では、人事と指導権の争いに、清浦内閣を支持するかという政権選択が重なっていました。
13|第二次護憲運動では、なぜ総選挙が政権を変えたのか
清浦内閣の閣僚は、貴族院の研究会を中心に構成されました。衆議院では政党が議席を争い、原内閣で政党が政府を担当した経験があるにもかかわらず、枢密院と貴族院を主な基盤とする内閣が成立したのです。
憲政会、立憲政友会、革新倶楽部は、清浦内閣を「特権内閣」「貴族院内閣」と批判し、政党内閣を求めて協力しました。これが第二次護憲運動です。
護憲三派は、異なる政党系譜から集まった
三党は、同じ起源を持つ政党ではありません。
加藤高明、高橋是清、犬養毅は、異なる政党の歴史を背負っていました。三党がすべての政策で一致したわけではありません。衆議院の政党を基盤とする内閣を作るという共通目的のために連合したのです。
1913年の第一次護憲運動でも、立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が協力しました。政党間の競争を続けながら、内閣の作られ方という共通問題で協力する行動が、1924年にも繰り返されました。
清浦内閣は衆議院を解散した
清浦内閣は1924年1月31日に衆議院を解散しました。清浦は、政友本党の支持を受け、総選挙で内閣の基盤を確保しようとします。
5月10日の第15回総選挙では、憲政会が第一党となり、立憲政友会、革新倶楽部と合わせた護憲三派が衆議院の多数を占めました。政友本党は議席を減らします。
選挙結果を受けて清浦内閣は退陣し、6月11日、憲政会総裁の加藤高明が首相となりました。加藤内閣には高橋是清、犬養毅も入閣し、護憲三派による連立内閣となります。
三党が合併して一つの政党になったのではありません。それぞれの組織を保ったまま、共同で内閣を支えました。
第一次護憲運動との違い
| 比較 | 第一次護憲運動(1913年) | 第二次護憲運動(1924年) |
|---|---|---|
| 主な対象 | 第3次桂太郎内閣 | 清浦奎吾内閣 |
| 批判の中心 | 藩閥・軍閥的な内閣運営、議会軽視 | 貴族院・枢密院を基盤とする非政党内閣 |
| 政党協力 | 政友会と国民党系が協力 | 憲政会・政友会・革新倶楽部が護憲三派を結成 |
| 決着の方法 | 議会と街頭の反対で、桂内閣が53日で退陣 | 解散後の総選挙で護憲三派が多数を得て、清浦内閣が退陣 |
| 政治史上の意味 | 政党・議会・世論を無視しにくくした | 総選挙結果と政権担当を結びつける慣行を強めた |
1913年にも民衆運動は内閣へ大きな圧力を加えました。しかし1924年には、衆議院を解散した内閣に対し、総選挙の結果が政権交代を決める手続きとして機能しました。
この後、1932年の五・一五事件まで、衆議院の政党を主要な基盤とする内閣が続きます。政党内閣は憲法上の義務ではありませんでしたが、政治を運営するうえで従うべき慣行になりました。
政党内閣が定着するには、選挙結果を受け入れる慣行が必要だった
1918年に原敬内閣が成立しても、その後に政党内閣が続かなかった理由は二つあります。
第一に、衆議院第一党の総裁を首相にする法律も、確立した慣行もなかったことです。首相選定では元老の推薦が大きな意味を持ち、貴族院、枢密院、官僚、軍も内閣の基盤になりました。原内閣は、制度が自動的に作った内閣ではなく、政友会の議席と組織、原の調整、元老との関係が重なって成立した内閣でした。
第二に、原の暗殺後、政友会をまとめる指導体制が整わなかったことです。高橋内閣は党内対立で退陣し、清浦内閣への対応をめぐって政友会は二つに分かれました。
1924年に重要なのは、政党内閣を求める声が強かったことだけではありません。内閣が衆議院を解散し、有権者が議員を選び、その結果に基づいて内閣が交代したことです。
制度は、条文を作っただけでは動きません。関係する人々が同じ手続きを繰り返し、その結果を受け入れることで慣行になります。政党内閣も、1918年に一度成立した経験と、1924年に総選挙で政権を選び直した経験が重なって定着しました。
現代への学び|制度を支えるのは、組織と手続きの積み重ねである
原敬は、議席だけで政権を運営したのではありません。地方支部、議員、閣僚、官僚、貴族院、元老との関係を調整しました。そのため、原を失った後、同じ議席数を持つ政友会でも政権を維持できませんでした。
一方、強い指導者に頼るだけでは、その人が職を離れたときに組織が機能しなくなります。政党政治を続けるには、後継者の選び方、党内の意思決定、人事の基準、他党との協議、選挙結果の受け入れ方を共有する必要があります。
1924年の総選挙は、非政党内閣への不満を、政権交代へ結びつけました。反対運動を起こすだけでなく、選挙という手続きを通じて次の政府を選んだ点に意味があります。
ただし、当時の選挙権には納税資格があり、女性は投票できませんでした。朝鮮や台湾の植民地住民にも、本国と同じ政治参加が保障されていたわけではありません。政党内閣の慣行が成立しても、政治参加の範囲と国家による統制には大きな課題が残ります。
次に問われるのは、誰を有権者に含めるのか、そして政治参加の拡大に政府がどのような制限を加えるのかです。
次回予告
次回は、1925年の普通選挙法と治安維持法を扱います。
加藤高明内閣のもとで、25歳以上の男性に納税資格を問わず選挙権を認める普通選挙法が成立しました。同じ年、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社などを取り締まる治安維持法も成立します。
政治参加を広げる制度と、政治運動を制限する制度が、なぜ同じ年に作られたのかをたどります。

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